探偵のエクリチュール

【二部】

「微笑をもて正義を為せ!」
  〇
 智慧の実は、怒りと、それから、孤独を教える。

「そろそろのはずだが」
 瞳に鋭い知性を宿した眼鏡の男が、誰もいないカルデアの廊下でそう呟いた。男は壮年というにはいささか遅すぎ、初老というにはまだ早いように見える。ただ、纏う空気は人生の酸いも甘いも十分にわかりきった人間のそれであった。
 男はこの付近の地図を脳裏に浮かべながらもう少し歩を進める。実際に男が見ることのできた地図は一つ下のフロアと今いる場所の真逆に位置するブロックの白地図のみであったが、計算と推測を重ねて現在地周辺の地図を正確に頭のなかで容易く作り上げていた。
「いやはや、墓所のように静かだね」
 このあたりはカルデアスタッフの住居スペースであるはずだ。現在時刻は午前二時半。ほとんどのスタッフが睡眠をとっている時間帯であるから静かなのは当然だろうが、思わずそう感想をぼやきたくなるほどに、固い静けさに満ちていた。
 その墓所のような静けさのなかに、《彼》はいるのだろうか、と男は考えた。
 男は無駄かもしれない行為を実行するほど腰の軽い人間ではない。「ここに彼がいる」という絶対の確信をもって今現在、行動しているのだが、実際に静寂のなかへ身を置いてみると少し不安にはなる。
 良いも悪くも、いつも頭のなかが騒がしい男だというのに。
 こんなところにいては、息が詰まって死んでしまうのではなかろうか。
 まあ、死ぬならば、それに越したことはない。
「さて」
 小さく息をついて、男はあるドアの前で足を止めた。ドアの横に設置されているテンキーに四ケタの番号を入力し、ロックを解除する。この部屋の主が男へ番号を伝えたわけではない。当然のように男はそれを限られた情報から推理したのだ。
 ピッと短い電子音が鳴ってドアが横にスライドする。通路照明の、夜用に設定された照度の低い光が、部屋のなかをぼんやりと、積もったほこりを払うように浮かび上がらせる。
 やはり彼は部屋にいた。

 マスターの部屋と比べるとやや手狭なスペースの奥に設置されたベッドの上に、彼はいた。廊下から差し込む灯りだけでは詳細を見ることは叶わないが、起きていることだけは雰囲気から感じ取れた。
「閉めてくれ。眩しくて仕方ない」
 そう言う彼へ追い打ちをかけるかのように、男は壁のスイッチを押す。一瞬の間を置いて天井の照明が点灯し、部屋全体の輪郭が生白い光に容赦なく暴き出される。普段のインバネスコートやレンズのついた器具とコルセットは見つけておらず、黒いワイシャツに黒いズボンと、葬式に行っても差し支えのない格好をしていた。手袋もしていない。彼が唸って目の上に腕を乗せ、人工の光を遮る。
「眩しいと言ったじゃないか」
「だから何だと言うんだ」
 男が肩をすくめて軽口を返すと、彼は腕を顔の上に乗せたまま数秒沈黙した。答える気が失せた――というよりは、何かに打ちひしがれている様子であった。
「本当にキミには聞こえているんだね」
 彼――ルーラークラスの英霊、シャーロック・ホームズはそう囁いた。

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