探偵のエクリチュール

 あの「シャーロック・ホームズ」が英霊として存在した、と知ったときの、あの喜びを、私は言葉にできない。

 コナン・ドイルの小説は幼い頃からよく読んでいた。時計塔で学ぶことになった際は、浮足立ってベーカー街に足を運んだ。と言っても、私のホームズに対する熱量は、所謂「シャーロキアン」と呼ばれる人たちには及ばないだろう。平均値よりはいささか上かもしれないが、ただ、普通に、ただ、娯楽として、ホームズの登場する小説群を好んでいた。
 だから、英霊としてのホームズを認識したときの喜びも、突き詰めてしまえばファン心理なのだと思う。敬愛でもなく、畏怖でもなく、ただ、嬉しかったのだろう。
 はじめは。
 しかしそれはいつの間にか、敬愛に変わっていた。依存に変わっていた。私は、ホームズのいるカルデアで働くということに、満足していた。彼の存在を認め、彼の行動を眺め、生きることに喜びを覚えていた。
 だから、彼の声が聞こえなくなったとき、私は焦った。
 どうにかして彼の声を聞きたかった。
 それだけの話だ。
 思い返してみれば、どうしようもない理由だ。そのどうしようもない理由で、三人が死んだ。
「私の声を聞くために罪を犯す――愚かだ。実に愚かだ」
 ホームズは声音にこそ嘲りを含めていたが、その表情は実に涼しいものだった。私が人を殺害して犯人と書かれた看板をぶら下げても、彼の瞳は私に興味を向けることはなかった。
 目の前に人を殺した男が立っていても、彼はその現実に何ら動揺することはなかった。その様子に私は、彼が人間から外れてしまった存在であることを実感せずにいられなかった。
「ええ、そうです。私は愚かでした。貴方と話すために、人を殺してしまった」
 しかし、彼と話すために人を殺した私もまた、人を止めているのだろう。
「死体は?」
 きっとわかっているだろうに、ホームズはわざわざそう尋ねてきた。私は彼と同じようにベッドに腰を下ろした。
「解体して埋めました。この寒さですから、まだ腐ってはいないでしょう」
 人の形は残っているでしょう、と私は静かに言った。
 持ち運べる大きさに解体されたといえど、人目見ればそれは人体だとわかるほどには、“人間として”死んでいるだろう。
 ホームズによる解決編を経たあとに、彼らは雪の下から掘り起こされるに違いない。
 人として。
 ただの人として。
 埋葬されるのだろう。
 愚かな犯人に殺された犠牲者として、皆に惜しまれ、弔われるのだろう。
「嗚呼、私は一生分の貴方の声を聞いた気がします」
 瞼を閉じ、自ら作り上げた闇のなかで、犯人わたしに向けられた言葉の数々を脳のなかに蘇らせる。落ち着いた抑揚、その裏に込められた「これは真実である」という絶対的な自信。
完璧だ、と感じ入る。私がどうあっても揺るぐことのない存在だ。
「犯人は、探偵に事件を看破されれば、潔く負けを認めねばなりませんね」
 目を開ける。
 壁も床も白い空間のなかで、黒い髪に黒いコートを着込んだ美しい顔の青年が、世界から排除された存在のごとく、異彩を放ってすぐそばに座っている。
そうだ。
こうしてあまりに独立した存在であったからこそ、私は探偵の彼を見つめて、声を聴き続けていたかったのだ。

 カルデアはどこもかしこも白すぎる。

「――待ちたまえ」

 腰を浮かせかけた私に、探偵が言う。
 彼はいつの間にか足を組むのをやめ、両膝の上に肘をおいて、顎の下で両手の指先をあわせていた。シャーロック・ホームズが考え事をしているときのポーズとして有名な格好だ。私は純粋なファン心理でその姿を見つめた。いいものを見れた、という場違いな純然たる喜びを束の間味わう。
 しかしすぐ、ホームズの声の強制力に不安になった。
 犯人わたしが動機を告白したというのに、探偵は何に時間を費やすつもりなのだろう。
「キミは、私の声を聞くために人を殺すほど、私に執着しているくせに、私の力を見くびっているようだ」
 彼の声には私を怒らせたいような空気があった。
「――逃げるとでも? そこはきちんとわきまえているつもりですよ、これでも探偵小説のファンですから……殺人者が言うのでは、信用がないでしょうか」
 もういいでしょう、と話を切り上げて立ち上がった私の左腕を、ホームズの右腕が掴む。さほど力は込められていないが、振りほどくことはできない。呆然とする私の方を見上げたホームズは、目を細め、唇の端をあげて言い放った。
「キミが三人のスタッフを殺害した動機はそれだけではないだろう」
 まるで、悪魔のような笑顔だと思った。

 私はこの人を選択し敬愛したことについて、はじめて後悔した。

 嗚呼。

 彼は、あまりに探偵でありすぎる。

「その解決編は必要ありません」
 無駄な抵抗と知っていながら、私はそっと彼の言葉を否定する。
「私は貴方の声が聞きたくて、貴方が探偵として発言できるフィールドに入り込むため、人を殺し、犯人になった。もう読者せかい > せかい]]はそれで納得している。事件は解決しています」
「ならば一つ尋ねよう」
 探偵は、いつでも真理を知っている。
 だが、明らかにしなくともよい真理はこの世に存在するのだ。

「複数人が行方不明になっているにも関わらず、何故、この場所は“こんなにも静か”なのか?」

「……」
 私は黙っている。
「カルデアに入るには指紋、声帯、遺伝子、魔術回路……多くのセキュリティチェックを潜り抜ける必要がある。そして、防犯カメラこそ壊れていたというが、そのセキュリティチェックに何らかの異常があったという話は聞いていない。つまり、部外者の犯行という可能性は、現実的には考えにくいのだよ。そうなれば犯人は、《身内の者》に限られるだろう。隣の人間が殺人犯かもしれない――そんな状況であるならば、もっとお互いを警戒してもいいはずだ。だが、皆、普段と変わらない」
「……」
 私は黙っている。
「カルデアのスタッフたちは、今行方不明になっている三人が殺されたことを、受け入れている」
「もう、いいじゃありませんか」
 私は感情を押さえて言う。
「行方不明になっている――キミが殺した三人は、極端に言って、死ぬべき人間だった」
「――もういいじゃありませんか!」
 私は激昂した。ハッと気付いたときには、ホームズの胸倉を掴んでおり、すぐ目の前に彼の整った顔があった。睫毛まで捉えられるほどに近い。その精巧さに私は我に帰った。すみません、と離しかけた私の手を、ホームズが上から押さえる。手袋越しでその体温は分からない。
「キミはよく眠れているのかい?」

コメント