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「俺たちが戦闘でいない間に、また一人、職員が行方不明になったらしい」
マイルームに呼び出したホームズにそう報告するリツカの顔は、悔しさで歪んでいた。彼がカルデアからいなくなったために職員が消えたわけではない。彼に責任はないだろうに、ベッドの端へ腰かけたリツカは己への嫌悪を隠さずに眉をひそめ、膝の上で拳を握っていた。
ホームズとともに呼ばれた私は、あなたのせいではないと言うべきかどうか、迷いながらも結局黙っていた。
「そうかい……十日間で三人か」
責任を感じているリツカと対照的に、本来、その捜査を依頼されておりリツカよりはよっぽど責任の一端を担うはずのホームズは、どこか上の空の表情でリツカの報告を聞いていた。さすがにリツカもその態度に思うところがあったらしく、一瞬視線を落として躊躇いを見せたあと、顔を上げ、口を開きかけた。
しかしホームズが、そのときを見計らっていたようにコンマ数秒早く、唇を動かした。
「その件なら、“ほぼ解決している”ようなものだ」
ホームズの言葉が、明瞭に響く。どこかぼんやりとした表情とは裏腹に、その声はどこまでも真実に肉薄しているようだった。揺ぎなく、限りなく透明で、光のように真っすぐだった。神託というものがこの世に存在するならば、このような響きを持つのだろうと私は思った。リツカも同じことを考えたのか、ハッと目を丸くしてホームズの端正な顔を見つめている。
そのまま真相が明かされるのかと思ったが、ホームズは静かに首を振って、私とリツカの視線を振り払った。
「ただ、動機に確信が持てない。しかし、足りないピースは一つだけだ。……心配はない、マスター。この件は今日中に解決する。それは約束しよう。だから、待っていてくれないか」
「……わかった」
リツカは頭のなかにほかの言葉を持っている、くすんだ表情を見せたが、一度目を閉じるとからりと晴れた顔で力強く頷いた。その変化に、私は人理修復を担ったリツカの強さを見た。
無制限の信用。
代償のない信頼。
リツカの長所は、一度決めたことを曲がらずにやり遂げることだろう。だからこそ、世界を救う英雄となれたのだと、私は思った。きっと世界に対しても、彼は無制限の信用を置いているのだろう。この世界を救うべきものとして、定義し続けているのだろう。
果たしてこの世界は本当に救うべきものであったのか、など、考えることはないのだろう。
と、私は妙に感傷的な気分になって、リツカの平凡な顔立ちを眺めていた。
「ところでマスター」
ホームズの散乱していた意識が、急に美しい笑顔の形となる。リツカは虚を突かれたようにびくりと肩を震わせて数度瞬きを繰り返した。
「……えっと、何?」
「今、“私の声は聞こえている”かい?」
本日数回目となる、リツカの驚愕が石を落とした水面のように広がっていく。リツカは唇を戦慄かせたが、結局その隙間から音が漏れることはなかった。だが、ホームズは許さない。探偵の問いには、答えなければならない。それが、探偵小説に出てくる証人としてのルールだ。探偵の問いに黙り込むのは犯人だけである。
ホームズはリツカが答えるまで辛抱強く、待っていた。
「とてもきれいに聞こえるよ」
リツカはそう答えると、その場から逃げるように立ち去った。
残されたホームズは立ち上がると、中央管制室近くのある部屋に向かった。ドアの外には木で出来た壊れかけの模型やくしゃくしゃに丸められた紙など、さまざまなガラクタ――としか呼ぼうがない物たちが放置されている。ホームズは転がっていた紙屑を一つ拾い上げると、壁に押し付けてしわを伸ばし、中身を検めた。
「なるほど」
その内容はホームズを納得させるに十分なものであったらしい。興味深げに大きく頷いたホームズは、何度かその内容に目を走らせると、もう用はないと言わんばかりにくしゃりと丸め、紙をその場に落とした。まるでホームズによって価値を吸い取られてしまったかのように――丸められた紙はただ地に落ちた。
部屋の出入り口にドアは嵌められておらず、壁がアーチ形に繰りぬかれているだけである。
「いらっしゃーい!」
ホームズが部屋に足を踏み入れた瞬間、楽しげな声が奥から響いた。それはこの部屋――ダ・ヴィンチ工房の主、レオナルド・ダ・ヴィンチその人のものであった。
豊かなダークブラウンの髪に永遠の名画「モナリザ」を思わせる芸術的に整った顔立ち。色気のベールを纏う肢体。黙っていれば完璧な美を体現する女性型の英霊――である。
勿論、それは黙っていたら、の話だ。
口を開けば己の天才を自覚した人間特有の尊大さが周りを巻き込み、嵐のようになぎ倒していく。同じく天才の自覚をもつホームズにとっては、互いに同族嫌悪を感じる存在であった。
「おや? 珍しい客人だね。何のようだい、希代の探偵さん」
工房のなかには生前、ダ・ヴィンチが残したスケッチに描かれていた発明品の模型が机の上、天井、壁とさまざまな場所に飾られていた。芸術家として名高い彼女 らしく、イーゼルにはカンバスがかけられ、風景が描きかけられていた。カルデアの外は雪景色――石造の建物が並ぶその風景は、ダ・ヴィンチの頭のなかにあるどこかの風景なのだろう。線の粗さからして習作なのであろうが、当然、思わず息をつきたくなるオーラがカンバスの表面から立ち上っている。例え作者を明かさずとも、高名な芸術家の作品であることを素人にも認識させてしまう、圧倒的な凄みがある。
「まあまあ、座りたまえ。ちょうど暇してたんだ」
人理修復中にカルデアをまとめていたロマニ・アーキマンがいなくなった今、カルデアのスタッフを束ねるのは実質上ダ・ヴィンチである。暇などあるわけがない。ダ・ヴィンチがここで暇を持て余しているということはつまり、職務を放り出してのサボタージュと同義なのだが、ホームズはそれについて言及しなかった。ん、と差し出された手に外套を預け、大人しく近くにあった木製の椅子へ腰を下ろす。腰につけられたコルセットが椅子の背に当たってカチンと硬い音をたてた。
「突然すまない。確かめておきたいことがあってね」
外套をコートハンガーにかけた後、ダ・ヴィンチはホームズの向かいに座った。自身の価値を隅までわかっている態度でゆったりと足を組む。九割の人間は僅かでもその美しさに動揺を見せるだろうが、その向かい、特等席に座る探偵は顔色を一切変えることがなく、その様子をただ視界に収めていた。
「……」
ホームズは十秒ほど、ダ・ヴィンチの顔を見つめていた。ダ・ヴィンチは、雄弁すぎる美しい微笑でそれに答える。完璧に近い造形をもつ二人が口を閉ざすと、天才彫刻家が一生をかけて作り上げた人形が二体、安置されているようだった。世界が完成している。輪郭をなぞっていくだけで、美の真理に辿り着けそうな雰囲気だ。
窓の美しいステンドグラスの模様や、周りに配置された奇妙な形の模型も相まって、まるで神の実験室のような、神秘的な空気すら漂っている。
カツン、と空気を割るような音が響く。
ホームズが持ち歩いているステッキが、工房の床を打った音だった。完成していた世界の秩序が容赦なく壊される。もう一度カツンと床をつき、逡巡を破ってホームズは口を開いた。
「今日は、一段と吹雪いているね」
何てことのない、天気の話題。
カルデアは標高六千メートルの雪山に作られた施設だ、一年のほとんどは雪とともにある。今日の吹雪の程度がどうであるかなど、「今日も朝がきて夜がくるね」というような、いちいち意識すらしないテーマだ。青空が晴れ渡り、表面の雪が溶けてきらきらと光っているような天気ならば話題にする価値はあるだろうが。
それをあえてホームズは口にした。
「カルデア内の気温も随分下がっているようだ。マスターが風邪をひかないといいのだが」
「……」
普段、工房でサボタージュしている際には通りかかった人間に誰かれ構わず「話し相手になってよ」と声をかけているダ・ヴィンチが、沈黙を守り通している。本当の絵画であるかのように静止している。周囲に配置された発明品の一つのように、沈黙している。完璧な微笑を保ち、視線はまっすぐと向かいのホームズに向けられていた。時たま閉じられる瞼が、彼女を生きている何かとかろうじて定義する。
「マスターと言えば――」
三度始まったホームズの世間話に、ダ・ヴィンチがようやく口を開いた。
「ああ、その通りだ、シャーロック・ホームズ」
しかしそれは、会話の体を成していなかった。
「申し訳ないが、私に“君の声はまったく届いていない”」
明らかに前の台詞と無関係であるダ・ヴィンチの言葉であったが、それを受けたホームズは大きく息を吐き、推理がひと段落したかのように、天井を仰いだ。
「そうかい」
そう呟いて目を閉じると、ホームズはいつの間にか手にしていたキャラバッシュパイプを銜えた。ズボンのポケットに忍ばせていたマッチを擦り火皿に赤い火を差し入れる。少し時間をおいて、彼は穏やかに煙を吐き出した。
「やはり、そうか……わかった。すべて理解したよ」
きらりとダ・ヴィンチの瞳が好奇心に輝くと、彼女はパイプの煙をくゆらせるホームズの方へぐっと体を突き出した。
「うん? 今の言葉はとぎれとぎれだが聞こえたぞ。……嗚呼なるほど、そういうことか。随分と君も難儀なことになっているねえ。君がただの人間だからこそ、ね」
ホームズはすべてを承知したようなダ・ヴィンチの言葉ににっこりと笑って頷くと、君が探偵でなくてよかった、と呟いて立ち上がった。どうやら再びホームズの声はダ・ヴィンチへ届かなくなったらしく、彼女は僅かに首を傾けて、じっとホームズの唇付近を見つめていた。
「邪魔したね」
その視線には応えず、コートハンガーから外套を掴むと一度も振り向かずにホームズはダ・ヴィンチの工房を後にした。
「さて」
工房から少し歩き、入り口が見えなくなったあたりの通路でホームズは立ち止まった。ステッキを床につき、優雅にパイプから口を離すと、辺りをくるりと見回す。
人影はない。
はずだ。
《私》は壁を掴むように身を密着させ、呼吸を詰めた。
ホームズがくいと片眉をもちあげて、独特の表情をつくる。
あらゆる謎を覗き込むような。
世界に挑戦するような。
許しがたい綻びを見つけてしまったような。
探偵でしかできないような。
独特の表情で。
「探偵らしく、解決編といこう」
希代の探偵は、通路の角から密かに彼を見つめていた“私の方”を見た。
私はその場から逃げた。

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