モリアーティはそう言った。
完全に込められた侮蔑の色にも、ホームズは反応しない。すっかり怯え、萎縮して顔を下に向けたままだ。モリアーティは短く舌打ちすると、膝を曲げてホームズの前にしゃがんだ。視線は合わない。
「キミの知性はどこに消えたのかね?」
ホームズの顎に指を触れさせ、ぐいと持ち上げる。数週間前のホームズであれば、モリアーティのこの行為に不快を露わにし、即座に笑顔でモリアーティの手を払っていただろう。しかし今はかろうじて、自分の顎へと伸びている腕を掴むだけだ。
視線が合った。
誰よりも透明度の高い知性に裏打ちされた瞳が淀んでいる。美しくない、と思った。
「キミが堪えるのは当たり前だろう」
「――何だって?」
せせら笑うように発せられたモリアーティの言葉に、ホームズが反応する。暗く淀んでいた瞳に、知性の光が仄かに灯る。モリアーティが発した言葉の意味を読もうと、脳細胞を働かせている。探偵としての性質が、彼の前に提示されるすべての意味を解明しようと自動的に動き出す。
そうだ、彼はこういう男だ。
意味はすべて解明されなければならない。
世界から暗闇を奪わなければならない。
機械のように徹底的に、神のように一方的に。
そして、人間のように容赦なく。
すべてを明かしてしまう男だ。
「『探偵(シャーロック・ホームズ)』は、人間の犯した罪を暴く存在だ。人間から発生した謎を明らかにする存在だ。うろんな人間たちで満ちるこの世界で、唯一、人間として真実を知る存在だ。被害者、加害者、その黒幕、すべての登場人物を真実へ導く存在だ」
彼の顎から手を離し、すっとモリアーティは立ち上がった。その腕を掴んだままだったホームズもつられて立ち上がる形となる。突然のことにふらついた彼の腰に反対の腕を回し、しっかりと自分と見つめ合うように固定してモリアーティは言葉を続ける。
「『探偵小説』という我々があがる舞台は、どこまでも人間の話なのだよ。誰かが誰かを恨み、妬み、嬲り、殺す――すべてが人間のためにある、人間によるステージだ。その舞台は人間たちの世界のなかにしかない。神話なんてもってのほかだ。例えキミが神話という物語に飛び込んだとしても、キミという最高の探偵の前では、神々はただの人間と化す」
ホームズとモリアーティの対峙――それは幾度となく世界中の人の間で語り継がれる正念場 。そのせいかわからないが、モリアーティは静かに高揚していた。気分が良い、と自覚していた。
「だから、キミは“誰よりも人間である”のだよ、ホームズ。それは私が一番よくわかっている」
互いに英霊と成り果てた今、永遠のライバルとして宿命づけられた男の瞳を真正面から見つめる。
「だから、人間から外れて怯えるのは当然の帰結だ。人間を超えたことで途方に暮れるのは当たり前なのだよ。世界がどうキミを定義しようが、キミは“人間を超えられない”」
「――っ」
ホームズがモリアーティの身体を離そうと、胸に手を置いて前に突き出す。
「そして私が相対するのは、探偵という人間の極致に立つ男なのでね。……勝手に人間をやめられては困る」
ぱっと両手を離し、突き出された手の力をそのまま受け止め、後ずさってホームズから距離を取る。
「何、私もただの人間なのでね」
視線はもちろん交わったままだ。透明な糸で結ばれたかのように、二人の視線はずれることがない。モリアーティはにやりと笑うと両手を広げた。希代の悪役のように、堂々と、己だけのために、両手を広げた。
「だから私は自分のために“全力を尽くそう”――キミのすべての言葉が成立し、キミのすべての行動が正当化するように」
モリアーティの笑みに、カルデアでは影を潜めていた――生前の記憶にある〈犯罪界のナポレオン〉としての面影を読み取ったホームズが、さすがに警戒を見せ、眉間にしわが寄る。
「何、我々のアレさ」
「……、キミはまさか」
モリアーティのこれからの行動に思い至ったホームズが僅かに目を見開く。シャーロキアンが見れば垂涎の光景であろうが、今、二人の対峙を知るものは二人以外に存在していない。
察しが良くて助かるね、とモリアーティは快活に笑った。
「私は――この人理継続保障機関フィニス・カルデア全体を巻き込む事件を起こし続ける。表面化していなくても、裏で動き続ける。カルデア全体に関わる犯罪を、起こし続ける」
あらゆる手段を講じて。
あらゆる知性を動員して。
あらゆる因果を構築して。
あらゆる思いを操作して。
あらゆる油断を利用して。
ジェームズ・モリアーティが――黒幕として存在しているならば。
カルデアが、モリアーティが関わる《事件の舞台》であるならば。
その場にいるシャーロック・ホームズは勿論「探偵」としての立場を与えられるだろう。
ホームズがそこに在るというだけで、否応なしに「探偵」として充分な理由となるだろう。
どんなに個人的なことを語ろうと。
どんなに愚かなことをしようと。
どんなに戦闘へ参加しようと。
そこがジェームズ・モリアーティが暗躍する舞台である以上。
すべては探偵の振る舞いであるだろう。
「何、感謝などしなくていい。暇つぶしをする口実ができたのだから、礼を言いたいのはこちらの方だ、ホームズ。そう暇つぶしだ。私にとっては暇つぶしにすぎない。まあキミにとっては、死活問題らしいがね」
そうかな、と呟いてホームズは壁から背中を離した。二本の足で、そこにあることがはじめから終わりまで決まっていたかのように、自然と静止する。その瞳には殺人者と成り果てたこの部屋の主が、探偵そのものだと縋った完璧な知性が宿っていた。
「探偵として、せいぜいあがくといい」
「さて」
ホームズの落ち着いた声が部屋に響く。それは、先ほどまでの弱り切ったものではなかった。真実のみを語る、「明かす者」だけに許される声音だった。
ホームズの周囲に細かな光の粒子が舞い、彼の輪郭を撫でる。気づけば、上下黒の格好は消え――白いシャツと濃紺のインバネスコートを身に着けた英霊「シャーロック・ホームズ」の姿がそこにはあった。腰には金属でできたコルセットのような器具がはめられており、先にレンズのついた腕が伸びる。
ホームズは衣装と同時に手にしたキャラバッシュパイプを口元に持っていきながら、美しく微笑した。
「一週間はもたせてくれないと困るな」
モリアーティもそれに応え、邪悪な笑みを浮かべ返すと、穏やかに目を閉じた。数秒の間の後、再び目を開いたときには――カメレオンの飾りのついたステッキに、仰々しいほどの装飾が施されたマント姿の英霊「ジェームズ・モリアーティ」がそこに在った。
「ちなみに、ギブアップはいつでもオーケーだからね。私はそこまで人でなしじゃない」
僅かに腰を折ると同時に左手を体の前に横切らせ――モリアーティは紳士がするように、頭を下げた。
「それでは、また、解決編で」
悪意に満ちた声の余韻が消えるころには、既にモリアーティの姿はそこになかった。

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