シャーロック・ホームズの声が聞こえない――その噂は、発生して間もなく、モリアーティの耳に届いた。サーヴァントだけでなくスタッフの多く、そしてマスターですら例外ではないらしい。モリアーティはさりげなくホームズの視界に入らないギリギリで彼の周囲を張っていたが、たしかにホームズと話しているとき、マスターが所々で虚を突かれたような、途方に暮れた表情を浮かべていた。探偵として最高峰の存在であるホームズが、マスターのその変化に気づいていないということはあり得ない。恐らく、わかっているが放置している。
モリアーティは、ホームズと比較的頻繁に会話しているレオナルド・ダ・ヴィンチを訪ね、彼の工房に向かった。ダ・ヴィンチは珍しい訪問客に目を輝かせたが、モリアーティがホームズについてと切り出すと、すぐつまらなそうに表情の輝度を下げて見せた。
「嗚呼、彼の声が聞こえないっていう話かい?」
まだホームズの名前しか出していなかったが、ダ・ヴィンチはモリアーティの望む情報を開示してくれた。
「その通り。何故か、彼の声が急に聞こえなくなるときがある。すべてじゃないのがどうも腑に落ちないね」
ティーカップが二つ、テーブルの上に並べられる。つまらなそうな顔をしたものの、紅茶を淹れてくれる辺り、歓迎はするようだ。モリアーティは遠慮なく、話を進めさせてもらった。
「ふーむ、そのわりには、キミはぺらぺらとホームズと話をしていたじゃないか」
「やだなあ、こっそり見てたの? 性格が悪いなあ」
「いや、キミにだけは言われたくないナ」
ケラケラと愉快そうに笑いながらも、ダ・ヴィンチの目はモリアーティの意図を読もうと冷静にこちらを射抜いていた。
「うーん、あれは単純に、唇の動きと聞こえた言葉から欠けた部分を想像しただけさ。ま、最近じゃ聞こえない部分が多すぎて、さすがに想像じゃカバーしきれなくなってきたけどね」
なるほど、とモリアーティは頷いた。
自分の予想が正しければ――これは、そういうことなのだろう。
「何がなるほどなんだい? もしかして、君のせいなのかな? マスターにちくっちゃうぞ?」
「いやいや、それは違うって! まったく、何でもかんでも私のせいだと思ってる?」
「思ってるとも」
「カルデアに来てからはナイスで善なるアラフィフのつもりなんだけどな!」
「次に同じ台詞を言ったら殺すから」
「ひどい!」
で、何がなるほどだって? とダ・ヴィンチは身をかがめ、下からモリアーティを見上げた。
「嗚呼。隠していてもしょうがないことだな…いや、私には――ホームズの言葉が“すべて聞こえている”んだよ。欠けることなく、いつものように、すべてね」
ダ・ヴィンチの顔が急激に苦いものを食べたときのそれへ変化する。
「…………そう。そうなんだ。それは、うーん、随分と、因果で業の深い話だ」
今の一言で、ダ・ヴィンチはモリアーティが達した結論にたどり着いたのだろう。その頭の回転の速さには、嫉妬や驚嘆より先に敬意が浮かんでくる。ダ・ヴィンチは工房の入り口の方にふと目をやって、そこにいない誰かを幻視するかのように目を細めた。
「『探偵』としての言葉以外は持ちえない、か」
あのとき、ダ・ヴィンチが達した結論を、改めてモリアーティは口にした。実際のところ、モリアーティには彼の言葉すべてが滞りなく聞こえるのであるが、マスターの様子やほかの英霊からの情報から類推するに、ホームズが奪われている台詞はどれも世間話や己の感想と言った、他愛もない――〈推理し、真実を語る〉という探偵のフレームから外れているものばかりだった。
つまり。
ホームズ個人としての言葉は、周囲の人間に届かない。
ホームズはその結論を、マスターを始めとする関係者を十人ほど集めて語った。己に何が起こっているのかを自ら説明する彼の声は、周囲にしっかりと届いていたのだろう。
神託のように、はっきりと、明確に。
それは推理を述べる、探偵の言葉であるのだから。
マスターはまじまじとホームズの顔を見つめ、ホントに聞こえると思わず言葉にしていた。
しかし結論を述べた後、少しも変わらぬ調子で続けられた「まさかこんなことになるとはね」という言葉に対しては、皆、ノーリアクションだった。というより、戸惑っていた。
また、彼の声が聞こえなかったのだ。
その表面に現れた一瞬の混乱を、彼が見逃すはずはない。目の前でまざまざと見せつけられた己の異常に、さすがのホームズも、どうしてよいかわからないという顔をしていた。
人間らしく、戸惑っていた。
「よりによって、君にはすべて聞こえるとは」
ホームズはようやく顔に載せていた腕を投げやり気味に体の横へと降ろした。あからさまなため息が長く吐き出される。
「私だって好きで聞いているわけじゃあないさ」
今では、ホームズ自身の――ホームズが語る「人間」としての言葉を聞ける者は、モリアーティしかいなくなっていた。何故ならば彼はホームズという『探偵』の好敵手、倒すべき悪としての存在だ。モリアーティにとって、ホームズという存在は、何よりもまず、『探偵』として在るのである。
「まさか、こんなに堪えるとは思わなかったよ」
ぼんやりと白い天井を見上げて、彼はそう呟いた。その姿は疲労に押さえつけられて起き上がれない、倦み疲れた人間のものであったが、彼は人間であることを許されてはいない。
普通の会話が成り立たないホームズについて、英霊たちもマスターをはじめとするカルデアスタッフたちも扱いに苦心していた。命令を下すことはできるが意思疎通が難しいため無下に戦闘へ連れ出すことも出来ず、カルデアで待機させておくことが増えた。それまではマスターの信頼も厚く、前線で頼りにされていただけに、その変化は堪えるだろう。話しかける様子や笑顔の質からして、ホームズの方も相当にマスターへ心を開いていた様子だった。
お互いに信頼しあい、マスターのそばで英霊として働いた結果が、これであるのだが。
戦闘シミュレーターに向かう前、マスターが「どうにかするからね、今、みんなで解決方法を考えているから」とホームズに労いの言葉をかけたが、それに対して心から発したのであろう、ホームズの「ありがとう」という感謝の言葉は、マスターに届いていなかった。
ホームズが再度長いため息をつく。まっすぐに天井へ向けていた顔を、ベッドの傍らに立つモリアーティの方へと僅かに傾けた。乱れて額の上にかかっていた前髪がさらりと落ちる。
彼はトーマス・エジソンや玉藻の前のように明らかに人間と異なる見た目をしているわけではない。近代以降の人間であることもあり、マスターをはじめとする非英霊とかなり近しい造形をしている。打ちひしがれているその様は、カルデアのスタッフたちと紛れそうなほどに人間であった。
「声が出ないわけでも、脳に支障をきたしたわけでもない――私としては普段通りに振る舞っているだけなのに、相手に言葉が届かない」
自分は変わっていないのに、世界の方が変わってしまった。
「正直に言えば――恐怖すら感じる」
考えてみれば、世界の仕組みが変えられる、ということは「探偵」にとっては異常事態であり、緊急事態なのだろう。何故ならば、探偵が行う「推理」は、自分が知っている世界だからこそ、推測がたち、その法則を理解できる世界だからこそ、行使できるものだ。自分が知り、再現できるものであるから、実際に目の当たりにしなくとも物が考えられる。確率はどうだと計算できる。君は悪だと断定できる。
つまりは、裏返してしまえばモリアーティの「悪事」もそうだということだが――気づいていなかったが我々は、この世界を、存在を、拠り所としていたのだ。
それから切り離されたとき、モリアーティたちはただの人間になる。
だが彼は、もはや人間に戻ることすら許されていない。
それは、絶望と呼ぶにふさわしい状況かもしれない、とモリアーティはほんの一瞬、背筋に寒いものが走るのを感じた。
そして彼はたった今、その状況に置かれ続けており、モリアーティ以外の誰かにその状況を説明することもできない。

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