違和感に気づいたのはいつのことだっただろうか――たしか、そう、一カ月前。
リツカと話しているホームズの姿を見かけて、ふと足を止めたときのことだった。ホームズは無関心の裏返しにも見える表面だけは完璧な笑顔を貼り付け、楽しげに何かを語っていた。リツカは年齢に合った少年の笑顔でそれに答えていたが、一瞬、作り笑いに切り替わった。
ホームズがずけずけと失礼なことを聞いたのだろうか。彼は天才であるがゆえに、鋭利すぎる知性をもつがゆえに、遠慮や気遣いに欠けた言動が時たま混じった。会話の内容が気になって、私は息を殺して耳をそばだてた。
聞こえてくるホームズの台詞は、他愛無い、世間話だった。
ただ――不自然に単語が途切れる箇所がある。
まるでラジオの音量ボタンをぐいと回したように、声が小さくなり、聞き取れない箇所がごくたまに生じていた。そしてリツカの作り笑いは、そんなときに現れるのだった。リツカも私のように、ホームズの声を聞き取れていないのだ。
その様子にホームズが気づかないということはないだろうが、ホームズは関係なく話を続けていた。
二週間のうちに、その現象は徐々にではあるが、進行していた。聞き取れない部分が増えていたのだ。
つい《十日前》まで、その現象は増大するばかりだった。
「――勿論、気付いていたんでしょう」
私の問いかけに、彼が「当然だとも」と落ち着いた声で答える。その一言は、どこも消え入ることなく、純粋な一つの台詞として、私の耳に届いた。
「確信したのはつい最近のことだったけれどね。私の声は、もはや『真実を語る』言葉以外は“聞こえなく”なっているのだろう?」
さすがは探偵の祖、シャーロック・ホームズだ。
その通りだった。
ホームズは私から視線をはずすと、部屋のなかを一通り観察して、私が普段使っているベッドの縁に腰掛け足を組んだ。私との距離は一メートルほど。探偵と犯人が対峙するには近すぎるような気がする。ホームズは自らの頭より高いところにある私の顔を見下していた。
聞こえる台詞と聞こえない台詞を分類してみると、彼が内容の重要さに関わらず己の推理を述べるときに声が消えることはなく、世間話や自分の感想など、探偵でなくても語れる言葉が虫食いのように消えていることがわかってきた。
つまり彼は――探偵としての言葉以外、もてなくなっていたのだ。
世界最高の探偵。
〈明かす者〉の体現者。
その二つ名に相応しい言葉以外は、彼の声帯から発せられるべきではない、禁忌となってしまったのだ。
「レオナルド・ダ・ヴィンチやニコラ・テスラのような英霊は、私の思考と唇を読んで、消えた言葉を推測し、話を合わせてくれていたようだね。余計な気遣いをさせてしまった」
そう言ってホームズは目を伏せ、手に持っていたパイプを口元へ持っていった。飄々とした表情は身を潜め、少し寂しげなようにも見えた。
ここに来る前、ホームズが寄った工房で、ダ・ヴィンチが言った台詞とあの完成された空気を思い出す。あの場でホームズはあえて世間話をダ・ヴィンチに持ち掛けていた。最後の検算として、ダ・ヴィンチの反応を確かめたかったのだろう。
さすがに何も聞こえず、言葉のヒントが皆無の状態では推測にも限界がある。ダ・ヴィンチはホームズとの会話を放棄した。
むしろ、あの様子では先ほどまで、普通に会話を交わしていたと考えていいだろう。さすが万能の人だ。
「恐らく、私は余計なことをしすぎた」
ホームズが薄い唇の隙間から煙を吐き出す。
「探偵はあくまで『明かす者』だ。真実を明かした先の行為は、別の者に委ねられる。探偵小説ならば、犯人を捕らえるのは警察で、裁くのは裁判官か世間だ。科学ならば、見つけた真理を利用するのは企業や個人だ。『明かす者』は明かした真実を利用しない。その先には進まない。しかし私は英霊として――戦ってしまった。地下帝国や下総をはじめとして、マスターとともに戦い、世界を救う手助けをしてしまった。英雄としての働きをしてしまった」
英雄。
カルデアに来てから、何度も聞いた単語。聞き慣れてゲシュタルト崩壊してしまった、高貴だったはずの音。
「既に私は『明かす者』として、いささか人間には荷の重い領域に踏み込んでしまっているからね。聖職者には程遠い存在でありながら『調停者』のクラスとなっている時点で、己の行動には気をつけなければと一度は思っていたんだが――」
ホームズは一度、『魔術師』から『調停者』へとクラスが変わっている。カルデアの英霊として正式に契約を結んだときのことだ。本人は何某かの理由を説明していたようだが、生前の逸話と関係のないクラス変更など、特例中の特例だ。
「もはや世界の構造まで知り得る存在が、『英雄』として世界を救ってしまったら、それはもう――人間ではない。むしろ神に近いものだろう」
私の脳裏に、女神として知られる英霊や、神話のなかに語られる英霊の姿が浮かぶ。
「元々、私という存在は『探偵小説 』に出てくる『探偵役 』に過ぎない。相手にするのはどこまでも人間で、私が推理を行使する範囲も人間が知覚できる世界の範囲を出ない」
ホームズはそう言って、人間と言うにはいささか優雅すぎる微笑を浮かべた。
「だから、神に近づきすぎた私にはバグが起こった――英霊から探偵への揺り戻しとして、『探偵』としての存在を強調されすぎてしまった。つまるところ、『探偵としての言葉』以外はもてなくなった、というのがキミにも納得できる言い方だろうね」
もっと細かく説明することもできるが、それをキミは望んでいないだろう、とホームズは足を組み直した。白いベッドの片隅を占有する黒いコートのホームズは、闇そのもののようだった。この存在の先はない。何故かそう思った。
「キミが私に語ってほしいのは、キミが犯した罪についての推理だ」
そうだ。
「キミのために語る言葉だ」
それでこそ、私の探偵だ。
私は貴方の声をずっと聴いていたかった。
「私は『探偵』としての言葉しか残せない。それは、英霊やマスターに対してでさえ適応された。勿論、無関係のキミに対しても有効だ。だから、キミは『探偵小説における必要悪』になった。探偵は犯人の罪を暴く。探偵の一挙手一投足に、犯人は注意しなければならない」
「ええ、その通りです」
はっきりと聞こえる彼の言葉に、私は頷く。
ずっと。
この十日間ずっと。
スタッフが最初に行方不明になったとされる日からずっと。
私には彼の言葉がクリアに聞こえている。

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