「キミにいいものを見せてあげよう」
ホームズはそう言うとおもむろに起き上がり、焦点がはっきりと定まらない瞳のままベッドから降りて、すぐそばに設置されていたコンソールテーブルに向かった。
そのコンソールテーブルの上には、一葉の写真が置かれていた。
「ほら」
その写真を手に取ったホームズは、そのままモリアーティへとそれを差し出してくる。
「何だね」
ホームズはコンソールテーブルのそばで壁に寄りかかったまま答えない。つい日頃のくせで、ホームズの行動に過剰な警戒心を抱いてしまうが、ただ、写真を見てほしいだけのようだ。仕方なく、モリアーティは写真を受け取ると、その表面に目を走らせた。表面がコートされた、よくある光沢紙である。デジタルカメラのデータを印刷したのか、細部までしっかりとピントが合っていた。
そこに写っていたのはノートだ。開かれたノートが、見開きで写し出されている。
ノートに書かれていたのは、文字列、としか言いようがないものだった。
fg3fkjio9kgffkj5kfggj4asglz.so19d9anna5@anafd[[3anafndaio3gnlkfnqt90gjganga――と、几帳面な文字でひたすらに書き連ねられている。
何かの、暗合だろうか。
アルファベットと数字、記号のみが使われているが、見たことのない文字列である。
モリアーティはさまざまな暗合の解読法やパターン分析を試みたが、何の法則性も見つけられない。バラバラであることが唯一の法則と言わんばかりだ。それとも、見開き一つで一データを表すのだろうか。一文字ずつの対応ではなく、全体で捉えろということか? そうなると、この見開きだけでは情報が足りない。
数学者として、そして悪のコンサルタントとしてのプライドが刺激され、ふむ、と顎に手をやる。
だが、そのモリアーティの思索を、探偵は呆気なく中断させた。
「これは、私が書いていた記録誌だ」
「ほう?」
自分以外には読めないように、もはや独自の言語と表していいような暗号でもって書き連ねたということか? つまりこれは、自分への挑戦と受け取っていいのだろうか? 思わず、口元を歪めてモリアーティが写真から顔を上げたが、ホームズの表情はモリアーティが予想したものとは大きく異なっていた。そこにあるのは失望であり、大げさに言ってよければ絶望の色だった。
「新宿、アガルタと私は起こったことの記録を書いていた」
ホームズが髪をかけあげ、写真を唾棄すべきもののように見下げる。
純粋に、侮蔑の視線を投げかける。
「勿論、英語でだ」
「英語――?」
モリアーティは思わず聞き返した。そして、写真に視線を戻す。ノートの上に書き連ねられているのはどう見ても意味不明な文字列であり、自分が知る文法に沿っているとは思えない。
「声と同じように、“書くもの”まで、影響が及んでいるらしい。私が直接、カメラを通さずにそのノートを見たときには、きちんと私が書きたかったように、私の意思が反映されたアルファベットが並んでいる」
「……」
ホームズは絶望の色を残したまま器用に微笑んでみせた。
「私の声がきちんと聞こえるキミも、直接ノートを覗き込めば、私が書いたものが見えるだろう」
事件の記録であれば、それは探偵の領分ではないのかとモリアーティは一瞬考えたが、すぐに己の考えを否定した。
探偵はあくまで“事件を解決する”人間だ。
事件を物語るのは――ホームズにワトソンがいたように、助手やそばにいる誰かの役割だ。
記録は、中立ではありえない。
世界のすべてを記述しているのならば、それは完全なる中立と言えるだろうが、人間にそんなことは不可能だ。誰かが見た世界、誰かのバイアスがかかった世界。記録されるのは、どうしても誰かの視点に限定される。
それは物語であり、物語を綴るのは探偵の仕事ではない。
探偵はあくまでも物語を操る側だ。
そういう――ことなのだろう。
「人間をやめるくらいなら死んだ方がましだと考える輩もいるようだが――」
ホームズはそう言って自嘲すると、写真が載せられていたコンソールテーブルの表面をゆっくりと撫でた。指先がそこに残った目に見えない何かを拭いとるように動いていく。
モリアーティは、つい数日前までこの部屋に住んでいた男のことを思い出していた。
英霊さえも名前だけは聞いただろう、男のことを。
「言っておくけどその件、私は関わっていないからね?」
その男は、カルデアのスタッフ数人を――つまりは人理修復の苦難をともに乗り越えた仲間3人を殺害したとして、拘束されている。その解決には勿論ホームズが関わっていた――それどころか、殺害理由が、「事件の犯人になれば、ホームズの声が聞けると思った」なのだから、ねじれにねじれている。
まったくもって遺憾だが、本件はモリアーティが一切知らぬところで進行しており、すべては男が勝手にやったことだ。もう少し気を配っていれば、もっと面白い展開にできたかもしれないと思うと、ため息が止まらない。
「わかっているさ。キミが関わっていたならば、あんな稚拙な犯罪では終わらない。それに…あの動機はキミに似合わない」
「ホームズの声を聞いていたい」――それは表向き、いやついでの理由であることに、モリアーティは感づいていた。かけがえのない仲間が3人殺されたというのに声を荒げる人間は一人もおらず、犯人の男は動機を語る際、妙に饒舌だった。そのほかにもおかしな点はいくつかあった。ホームズは犯人が自白しており、常に真相は明らかになっているからという理由で語らなかったが、裏にほかの理由が隠されていることは明白だった。
与えられた情報を総合して考えると。
彼が殺した3人のスタッフと犯人の男はすでに人間としては壊れかけていて――現代風に言うならPTSDというやつだ――ならば壊れ果てる前に、人間をやめる前に、すべてを終わらせようとした、といったところだろうか。
そして、殺された3人は、殺されることを受け入れていた。むしろ、殺される直前には穏やかに微笑んでいた、というのがモリアーティの推理である。犯人が何も語らない以上、事実かどうかは分からないが。
99.9999%(シックスナイン)、そうであろう。
「私は死ぬことすらできない」
ホームズはくたりと体から力を抜き、壁に背中を寄りかからせた状態のままずるずると座り込んだ。虚ろに満ちながらもどこか切羽詰まった瞳で膝のあたりを見つめている。
弱り果てたその様子はモリアーティの好奇心を刺激する要素が一つもなく、すぐ視界に収めるのに飽きてしまった。ふと、ホームズがいなくなったベッドに目をやると、その上にはぱらぱらと銀色のごみのようなものが落ちていることに気づいた。
そっと移動し近づいてみる。銀色のごみは錠剤の包装だった。細かく印刷された文字は、精神を安定させる薬剤の名前と同じである。十数のごみが、血痕のようにベッドの上に散らばっていた。さらに見れば、枕の横には開いたアンプルと細い注射器が数本落ちていた。針の先に接した部分のシーツがうっすらと濡れている。
ホームズがコナン・ドイルの小説内でそうであったように、薬物をカルデアにきても摂取しているのは知っていたが、これはホームズが所有している薬物ではない。モリアーティが見たことのない種類のアンプルと錠剤だ。
何故こんなものを――と考えはじめた瞬間に、モリアーティは、嗚呼、と独りで納得して頷いた。
特別な推理は必要ない。
最初からここにあったのだ。
錠剤もアンプルも、この部屋にいた男の物だ。
蝕まれていく自分の精神をどうにか立て直すために縋ったのだろう。効果は結局薄く、今、モリアーティの目の前で項垂れる男を信奉することで現実から逃避していたようだが。
彼が、今のホームズを見たら何を思うだろうか。
人間らしく失望するのか。
人間らしくざまあみろと笑うのか。
人間らしく激昂するのか。
「現実がどうであろうと」
人間を終えてただ黙っているのか。
「真実のために己を定めるのが探偵であるはずなのに、何故私はこんなにも今の状況を苦痛に思っているのか、まったくわからないんだ」
ぐしゃりと己の髪を掴んで、ホームズは苦痛に満ちた声を発した。痛みという概念が音に変換されたような、マスターあたりは一音聞いただけで耳を塞ぎそうな声である。
だがきっと。
いや必ず。
この声はモリアーティ以外に届かない。
わからないなどと弱音を吐く、探偵らしからぬ言葉は、世界から排除される。
「一体私は何を間違えた?」
「無様だな、好敵手 > ホームズ]]」

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