二度とない幸福と三度目の降伏

Fate Grand/Order

2018.1.28発行の同人誌より再録。

モブがいっぱい出るので、苦手な方はご注意ください。

※ カルデアに来る以前のホームズについて好き勝手考えた本です
(新宿で出会う前、ホームズが一人で何カ所かレイシフトしていたら…という妄想あり)
※ ホームズが泣いたり絶望したりするので、めちゃ強ホームズをお求めの方はご注意ください


一 幸福の降伏


It made me want to cry.
No one had seen him since.
It made me feel uneasy.
No one had seen him.
The thought made me smile.
The pain was unbearable.
The crowd was silent.
The man called out.
The old man said.
The man asked.

 ――一八XX年、欧州。

 中心都市から車で三十分程走ったところの集落を、彼は訪れていた。
 目的は――「人類そのものを殺害する」という史上最悪の殺人事件の犯人を示す証拠を探すためだ。一八八八年のロンドンとキャメロットに現れたアトラス院で集めた情報から、大枠までは推測できたが、犯人像や完全なる目的の把握までには至っていない。目的完遂後の世界についても、まだ十分推測できたとは言い難い。
 
ある歴史上の人物を調べていた、世間から遠ざかった研究者がいるということで、彼はこの集落を訪れていた。
 彼が車を借りてこの集落に辿り着いたときには既に日が落ちていたので、本格的に動き回るのは明日からにしようと決めた。道を歩いていた農夫に声をかけ、件の研究者について尋ねると、彼は薄闇のなかにぼんやりと見えるなだらかな丘の向こうを指差し、一人集落から離れて暮らしていることを教えてくれた。農夫の少し気まずげな表情から、目的の人物が気難しい、できれば関わりたくない種類の人間であることがわかる。これは少し対策と情報の手土産を準備してから出向く必要があるだろう。
 農夫に丁寧な礼を述べ、ついでにと集落内で宿泊できる場所を尋ねたところ、集落唯一のバーを営んでいる夫婦が、二階を宿泊できるよう空けているとのことだった。御礼の言葉を重ね、心ばかりの現金を渡すと農夫はぱっと顔を輝かせて懐に紙幣をしまい、さっさと行ってしまった。
 さて、と一息つき、人の賑わいからして、バーはあちらだろうと検討をつける。
 彼は被っていた黒の中折れ帽のつばを親指と人差し指でつまむと、左から右へひき、つばをまっすぐに整えた。

 当然というべきか、彼が予想した方向に宿泊施設を備えたバーはあった。テーブルが三つあるほかにカウンターへ四人が座れるようになっており、二十人入ればぎゅうぎゅうになってしまう、こぢんまりとした店だった。壁や床は丁寧に磨かれているが、経年劣化を補うまでには至っていない。良く言えば親しみのある、悪く言えば庶民的な空間だった。
現時点で埋まっているのはテーブル席だけであり、カウンターには誰も座っていない。
 客層はさまざまで、それぞれの職業もバラバラなのは服装からも明らかだが、そのなかにおいても彼は異質だった。先ほどから入り口に立つ彼の姿に、ちらちらと下から伺うような視線が向けられている。黒の中折れ帽にベージュのトレンチコート、灰色のスーツを身に着けた彼の背筋はまっすぐと伸びており、その服装ではなくまとう空気が、あまりに整然としすぎていた。僅かに顎をさげ、コートの襟の隙間に隠れているため顔の全貌は明らかでないが、帽子のつばの下に並ぶ二つの瞳は清廉を絵にかいたような涼しい緑である。
 彼は客たちの視線を断ち切るようにさっそうと歩みを進めると、一番入り口に近いカウンター席に腰掛け、カウンターのなかでグラスを磨いていたマスターの背中越しに並ぶ酒瓶をざっと眺めた。マスターも集落のものでない異端者に興味はあるのだろうが、職業倫理に則って黙々とグラスを磨いていた。あまり期待していなかったが、きちんとした、信用に値する男なのかもしれない。
 ふと、彼の視線が棚のある一点で止まる。目立たない下の方にこっそりと置かれたワイン。そのラベルには「クラレット」の文字があった。彼の唇が喜びに歪む。
「ああ、それを……そのワインを」
 滅多にオーダーの入らない瓶を指さす彼に、マスターが興味の目を向ける。彼が喜びを浮かべている様子を見てとると、速やかにクラレットをグラスに注ぎ、スッと彼の前に差し出した。つまみとしてチーズの載った小皿も出てきたが、彼はまずグラスを口元にもっていった。赤い液体が彼の唇の隙間からそっとなかに注がれていく。何てことのない動作のはずであったが、それを何気なく目にしていたマスターの指先がぴくりと痙攣してしまうほどには、鋭い美しさがあった。優雅、という概念が最も近いかもしれない。
 彼は安堵のため息をつくと中折れ帽をとり、カウンターに置いた。収めていた汚れを払うように小さく頭を振ると、乱れた前髪をかきあげる。その一連の動作をカウンター向こうのマスターはぼんやりと眺めていた。
「お客さん、どこかの貴族の坊ちゃんですか?」
 マスターの問いに、彼はにこり、とガラスが煌めくように微笑んだ。コートの襟と帽子で隠れていたその顔は端正なもので、細い顎から感じられる繊細さと対照的に、理性に裏打ちされた緑の双眸は確固たる意志を滲ませている。まるで人形のようであるが、クラレットを前に見せる楽し気な様子は、子どものように純粋な人間にも見えた。
 彼はマスターの問いかけに答えない。
 それは肯定の意味であろうと、マスターがさらに不躾な観察を続けていたところ、いつの間にか彼は、ワイングラスをかかげ、ゆっくりと回しながらマスターの方を見つめていた。その視線に、マスターは自分が観察されていたことを悟る。それも、どうしようもなく深部まで。一瞬にして、追いはぎにあったような感覚を覚え、マスターは慌てて目を伏せた。
 それに満足したかのように、彼はワインを再び一口飲み込むと、カウンターの隅に置かれていた新聞を見つけて、己のそばに引き寄せた。
 この国でもっともスタンダードな大衆紙である。内容は多岐に渡っていたが、彼は一面に載っていたある殺人事件の記事に目を留めると、丁寧に読み込みはじめた。
 彼が姿を見せた当初は彼を気にしていたほかの客たちは、いつの間にか各々の日常に戻っていた。

 五分程経ち、ちょうどワイングラスが空になった頃、彼は新聞をマスターの方へぐいと押し出した。先ほどのすべて見透かすような視線を受けてから何となく彼を見られないでいたマスターは、恐る恐る彼が示した新聞に目をやった。そこには大きくある殺人事件の記事が掲載されていた。その事件のことは、マスターも知っていた。中心都市で大きく騒がれている事件であり、犯人の目星がまったくつかないと、警察も困り果てている事件だった、と記憶している。新聞記事にも事件の概要に加えて、新たな犯人の遺留品が見つかったことが書かれており、されど犯人の行方は知れず、という一文で締められていた。
「この事件だが」
 思いがけず彼が言葉を発したのでマスターは反射的に顔を上げてしまった。
「被害者の家の暖炉を探せば、凶器が見つかるだろう」
 彼の視線は相変わらずすべてを見透かすようなものであったが、それは最早マスターではなく、もっと遠い、ここではない場所へ向けられているようだった。落ち着いた低音で、彼は事件についてなおも語る。
「犯人は――被害者の職場関連で、一番被害者と歳が近い人間だ。もしキミが善行に興味があるというのなら、そう警察へ訴えてみるといい」
 まるで見てきたかのように語った彼は、中折れ帽を手に取り、頭へ被せた。いつの間にか新聞の横にクラレット分のコインが置かれている。マスターは突然の言葉に戸惑いを隠せず顔には疑問符が貼りついていたが、はあ、と気の抜けた言葉をひとまず返した。彼は再びコートの襟に顔をうずめるように俯くと、マスターに薄く微笑みかけた。
「――一晩、泊まるところを探しています」
 まるで、“探偵”のようじゃないか。
 そう、呟こうとしていたマスターは、彼の言葉に思考の方向を転換せざるを得なかった。
 何故ならばマスターであるその男は職業倫理を重んじる、できた人間であるからだ。仕事よりも個人の興味や感想を、優先するわけにはいかなかった。
 そのために、マスターは手を止め、二階を宿泊のために空けていることを、彼に説明せざるをえなかった。
 彼はそうなることをあらかじめ見て知っていたかのように、無言でマスターの説明を聞いていた。

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