二度とない幸福と三度目の降伏

二 降伏の幸福

私は泣きたくなった。
誰も彼をあの頃からみていない。
それは私を不安にさせた。
誰も彼に会わなかった。
ある考えが私を笑顔にさせた。
苦痛は耐えられなかった。
皆静かだった。
ある男が呼びかけた。
老人は言った。
ある男が尋ねた。

「――まずは観察力を磨くことだ。些細な出来事も見逃してはいけない」
 コツコツときれいな革靴の底が床を叩く音が響く。リツカは数歩前を歩くホームズの後ろ姿を見つめていた。
「すべてを細部まで記憶することは困難だろう。だが、そこにある要素を覚えるだけならば、マスターでも可能なはずだ」
 リツカとホームズが歩く幅の狭い通路の左右は背の高い本棚がずらりと並んでいる。
 ここはカルデアの資料室。
 人類史に関わる情報が集まる部屋。
 神話、英雄譚といった英霊に関する物語や、魔術の匂いのする事件を集めたスクラップブックだけでなく、人類史を知るための資料が数多く収められている。蔵書が多すぎるせいで、通路は大人二人が並ぶには困難な幅である。ホームズは右腕を真横に伸ばし、棚にぎっしり並べられた本の背を黒い手袋をつけた指先で撫でながら進んでいる。情報を舐めるようなその仕草に、彼の背負う「探偵」という呼称が、リツカの脳裏に強く呼び起こされた。
「次に、できるだけ広い視点から情報を集めておくことだ」
 ホームズの落ち着いた声が聞こえる。

 シャーロック・ホームズ――有名すぎる探偵。
 英霊として現界した彼は、まごうことなき知性の象徴であり、真実を求める騎士だった。
 彼は第四特異点でチャールズ・バベッジから「人類殺害計画」の真相を解明するよう頼まれ、カルデアとは別に動いていたらしい。方法は聞いていないが、レイシフトを繰り返して独自に“捜査”を続けていたようだ。第六特異点のアトラス院、そして亜種特異点の新宿と再会した彼は、とうとうカルデアにやってきた。いつの間にかカルデアとの契約まで済ませおり、ルーラーのクラスの英霊として、リツカのそばにいる。マシュはコナン・ドイルの小説のファンらしく、ホームズの姿を見るたびに顔を輝かせている。
 リツカも原典を読破こそしていないものの、ホームズの名前も活躍も、勿論知っていた。興味半分で「ホームズのようにかっこよく冷静でいられるにはどうすればいいの」と尋ねたところ、暇を持て余していたらしいホームズが丁寧に教えてくれることになったというわけだ。
 マシュが聞けば羨ましさに卒倒してしまいそうな状況だが、マシュは検診に行っていて、夕方まで医務室から出てこない。ホームズもそれを知っていて、リツカの言葉を受けた節がある。
 彼の言動はいつでも、すべてを見透かしているかのようだった。
「バタフライエフェクトという単語が出てきてしまうほどに、世界は複雑で、因果が絡み合っている。どの情報がどう役立つかわからない。そうだね――」
 本の背をなぞりつづけていたホームズは、突然ぴたりと手をとめ、一冊の本を抜きとると、リツカの方へくるりと振り返り、目の前でその本を開いてみせた。リツカがそばに寄ってホームズの手元を覗き込むと、本には新聞が縮小されて印刷されていた。
「そういうときには、このように新聞の縮刷版が役に立つだろう。さまざまな時代の出来事を知るには、新聞が一番だ。特に、二十世紀以前は。小さな扱いかもしれないが、他書にまとめられている出来事以外の、ちょっとした事件が載っていることも多い」
 なるほど、とリツカが頷くとホームズはコトリと音を立てそうな機械じみた、整いすぎている微笑を浮かべた。
「人理修復も終えたのだから、空いた時間に目を通しておくといい。我々が歩んできた歴史を知ることは重要だ、英霊を理解するうえでも…これからの日々を過ごすうえでも」
 含みのある言い方だったが、ホームズがそれ以上語らないということは、今、リツカが知るべきことではないのだろう。素直にその言葉を受け止めて、勉強するよ、と宣言する。
 早速、ホームズが開いたページをざっと眺めるが、東欧の出来事がまとめられたその新聞に載る記事は、たしかにリツカの知らないことだらけだった。
ふと目についた、新聞の上部に印字された年月日に、リツカが声をあげる。
「そういえばホームズ、この年にレイシフトしたことがあるって言ってなかった?」
 ホームズがカルデアに来るまで何をしていたのかということをリツカが尋ねたとき、この年代の話が出ていた気がする。彼が実際訪れたのはチェコだったか、トルコだったか――リツカが知らない国の名前だった気もする。
「ああ、そうだ。よく覚えていたね、マスター」
 ホームズが感心の声をあげる。へへ、と笑って照れるが、ホームズの話が面白くてよく覚えていたのだ。
 ホームズの話は理路整然としていたが同時に聴衆を興奮させるような、独特の盛り上がりがあり、リツカは次に何がくるのかと、不謹慎ながらわくわくして、その冒険譚を聞いていた。好きな漫画や小説の展開をよく覚えているように――ホームズの話してくれた冒険譚のことは、比較的細部まで覚えていたのだ。
 ホームズがレイシフトした時代。
 彼が暗躍した時代。
 そう思うと、ぐぐっと好奇心が沸き上がる。リツカはそのページに印刷されていた新聞を熱心に見つめた。ホームズ自身はさして興味を抱いていないのであろうが、リツカが眺めているためにページをめくることもできない。仕方なくリツカと同様にざっと内容を確認する。
「女の子が殺されちゃったんだ…犯人は捕まっていない……」
 リツカがそのページでは一番スペースをとっている記事を目でなぞりながら呟いた。薄栗色の髪に碧眼の少女が、裏道で殺害されているのが発見されたと書いてある。死体の損傷が激しいことから強盗ではなく、何らかの事件に巻き込まれたらしいが、犯人も、その目的も、詳しいところはこの記事の時点ではわかっていないようだ。
 そのとき、頭上から息を飲む音が聞こえた。
 視線をあげると、リツカが今、読んでいた記事にホームズも目を向けており、まったく何も読み取れない無表情を顔に貼りつけていた。感情を抑制しているのではなく、持っていた感情を離してしまったような、空虚な表情だった。
「ホームズ?」
 リツカの呼びかけに、ホームズがぴくりと肩を震わせる。ああ、どうした、と取り繕うようにホームズが微笑む。明らかに作られた模造品の微笑にリツカは眉をしかめた。パタンと勢いよくホームズが本を閉じ、棚に戻す。そして彼は、再びリツカに背を向けて何事もなかったかのように歩き出した。
「ほかにマスターがすべきことといえば、そうだね――」
「ホームズ」
 リツカは彼の名前を呼んだ。
 思い出したからだ。
 彼が語った冒険譚。
 十八世紀の東欧で。
 彼は気まぐれに、“一人の少女を救った”と言っていた。
 追っ手を倒し、安全な道を教え、少女を逃がしたのだと語っていた。
 ――人理修復を終えた今。人類の消失はそもそもはじまってすらいないことになっている。特異点となった七点は、正常の歴史に戻り、歪みは是正されている。
 それはホームズが行ったレイシフトにも言えることだろう。
 はじめからソロモンの計画がなかったのであれば、ホームズはレイシフトをする必要がない。歪みは修正される。なかったことになる。
 つまりは。
 人理を修復した今となっては――少女はホームズと“出会っていない”。
 出会っていなければ救いようもない。
 だから少女は死んだのだ。
 ぴたりと、ホームズが足を止めた。後を歩いていたリツカもまた、その場に立ち止まることになる。ぎりぎり表情が読めない程度に顔をこちらへ向けて、彼は口を開いた。
「マスター、常に冷静でいるには――いらないと思った情報は忘れることが大切だ」
 それだけを告げ、ホームズが再びカツカツと、革靴の音を響かせて足を進めはじめる。
リツカはしばらく、その場にとどまっていた。
 ホームズがさまざまな時代の、さまざまな記録が収められた本棚の間をゆったりと歩いていくのが見える。真実の側につき、世界を真理で照らす者。

 資料室を出ると、一旦休憩しようと資料室から一番近い休憩スペースに移動した。向かい合わせで椅子が置かれたテーブルに腰を落ち着ける。
 リツカはホームズに何と声をかけるか迷い果てていた。一体、何を言うのが正しいのだろう。ともに七つの特異点を越えてきた仲間であれば、励ましや御礼の言葉をすんなりと述べることができる。だが彼は一人で――ここまで来たのだ。新宿の一件があるといえど、背負うものがあまりに違いすぎる。
 カルデア内にいくつかある休憩スペースは、どれも似た形をしている。テーブルがあり、椅子があり、飲み物を自由に選んで飲めるドリンクサーバーがある。いつでもリラックスした雰囲気が漂っており、リツカも自然と落ち着く場所だった。どちらかといえばスタッフが中心に使う場所で英霊が来ることは滅多にないが、入れないわけではない。ジャックやナーサリーといった子ども姿の英霊がスタッフに遊んでもらっているのをここではない休憩スペース内で見たことがあった。
「はい」
 リツカはホームズの前に紙コップを置いた。なかにはコーヒーが注がれている。ホームズは一言礼を述べると、好き好きの時間を過ごしている休憩スペース内のスタッフたちをぼんやりと眺めていた。
「私は――」
 リツカは黙って、ホームズの言葉の続きを待った。
「かつて、世界を変えられると本気で信じていた」
「うん」
「世界を救えると本気で信じていた」
 過去形で語られていることが、少しだけ悲しい。リツカは自分用にもってきた紙コップを両手で包み込んだ。コップ越しに液体のぬくもりが伝わってくる。
 ホームズはそれ以上、言葉を続けることはしなかった。ぼんやりと、他愛無い話をしたり、一人リラックスした表情で座っているスタッフたちを眺めている。
「……今こうやって、俺がここにいるのも、みんながここにいるのも、ホームズのおかげでもあるんだよ」
 ホームズがリツカの持ってきたコーヒーを口にする。
「魔術協会やアトラス院でホームズがヒントをくれなかったら、きっと俺たちはここまで来れていなかったと思う」
 ホームズは答えない。
 かけるべき言葉を間違えただろうか、とリツカは自分のコーヒーの表面を眺めながら考えた。
 今、休憩室に入ってきた二人の女性スタッフが楽しそうにお喋りをしながら、リツカとホームズの隣のテーブルに腰掛けた。
「そういえば、この前急に休みをとってたけどどうしたの?」
 リツカはホームズに掛ける言葉を探しながら、彼女たちの話を聞いていた。
 ホームズは何も言わない。
「実家に帰ってたの。聞いてよ、両親に呼ばれたからやっと休みをとって帰ったら、お前はいつこの店を継いでくれるのかって話でね。私はカルデアの仕事があるからって言ってるのに」
「店? どんな店なの?」
「バー、って言ったらいいのかな」
「バー? あなたの実家ってバーなの? おしゃれじゃん」
「全然そんなことないよ。ひいひいおじいちゃんが始めた店なんだけど、〇〇〇って知ってる? 知らないよね、そんな田舎のバーだから、全然おしゃれじゃないのよ。なんというか、安いホテルに併設の名ばかりのバー、みたいな」
 でも百年以上続いちゃってるから、どうしようって感じ、と言って、リツカたちと近い位置に座っている女性スタッフは物憂げなため息をついた。
 ふと、リツカの頭の片隅に何かひっかかるものがある。
 〇〇〇という地名に、リツカは聞き覚えがあった。
 そうだ。
 ホームズの冒険譚のなかに、その地名が出てきたのではなかったか。ソロモン王の研究をしていた男を訪ねて、〇〇〇に行ったという話を、聞いた、はずだ。
「そのおじいちゃん、話だけ聞くとすごく楽しそうな人生送っててさー、羨ましいわあ」
 リツカはホームズの方を見た。
 ほんの僅か、その表情に変化が現れている。
 それでも彼は何も言わない。
 〇〇〇から帰ってきた女性スタッフの肩を、もう一人のスタッフが思い切り叩いた。

「何言ってるの。あなただってこれからの人生、楽しく送れるじゃない。私たち……それだけじゃない、みんな、これからもちゃんと生きていけるのよ。人理が修復されたんだから」

 ホームズはぴたりと、胸を貫かれたように動きを止めると、無表情のまま固まった。叫びだしたいのを耐えているような粘度の濃い無表情に、リツカはホームズの顔を覗き込む。ホームズはリツカの方を見ようとはせず、何もない一点を見つめていた。十秒ほど経って、ホームズの表情に変化が現れたが、彼は探偵らしからぬ逡巡に満ちた瞳で細かく視線を泳がせただけだった。ただ、自分の内に生じた何かに、自分自身が戸惑っているような、ある種稚拙な逡巡のように見えた。
 その稚拙さが、彼にはひどく不釣り合いだった。
「ホームズ?」
 彼の瞳が光っている。その光が揺蕩い、処理しきれなかった内の何かが溢れたように、ぽろりと零れ落ちた。
 一瞬リツカは、何が起きたのかわからなかった。
 ホームズが泣いている。
 リツカは黙ったまま、彼を隣で呆然と眺めていることしかできなかった。彼は唇をかみしめたが、涙は止まらない。ホームズは口元に手をもっていくと、ぐっと力を込めて堪えた。指先が微かに震えている。顔をリツカ側に少しだけ向けた彼は、リツカを心配させないつもりだったのだろうか、指の隙間からかろうじて見える唇を歪めようと試みたが、苦痛を耐えるそれになっており、微笑という概念からは程遠かった。
「すまない」
 そう言って鼻をすすったホームズは、湿っぽい息を吐くと、頬を伝った涙を拭って再度微笑を作ろうとし、失敗した。肩が小刻みに震え、彼は俯いて、口元から手を外し、そのまま両目を覆った。
 長く、息を吐く。
 彼が静かに泣いている。時折混じる嗚咽が、あまりに苦しかった。
「大丈夫」
 ホームズはそう言って一度態勢を立て直そうと顔を起こしたが内から湧き上がる何かに耐え切れず、すぐ元のように視線を落としてしまった。
 リツカは息を殺して彼の傍にいた。
 それしかできることはないと思った。
 きっと今のホームズは、リツカの知らないことで泣いている。リツカがわからないことで泣いている。
 ホームズが、深呼吸を繰り返す。
 今までの彼の背負ってきた時間や感情が、徐々に吐き出されていく。その密度に、リツカはやはり呆然としていることしかできなかった。
「大丈夫」
 そう呟いて彼が顔を上げる。涙が目尻に溜まっていたが、それはいつもの、探偵――シャーロック・ホームズの顔だった。

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