私は探偵だ。
――という私の呟きは、質素な部屋のなかの乾いた空気に紛れてすぐになくなってしまった。硬いベッドの縁に腰掛け、私はじっと自分の向かいにある壁を見つめていた。染みの多い、埃で色のくすんだ壁。
立ち上がり、ベッドにテーブルと椅子が一セット、コートハンガーラックに全身鏡が一枚あるだけの部屋のなかを落ち着きのない動物園の虎のようにぐるぐると歩き回って、盗聴も盗撮もないことを確かめる。今、この段階では、私は少し異質なだけの男だ。噂されることはあっても怪しまれることはないと思うが、念のためだ。
私の存在が、異常としてこの時代の誰かの目に残ってはならない。
何故なら。
私はこの時代の人間ではないからだ。
そもそも。
私――シャーロック・ホームズは、もはや人間ではない。
それは「シャーロック・ホームズ(わたし)」という存在が、コナン・ドイルの「小説(フィクション)」に登場する架空の人物だから、という意味ではない。
今の私は「英霊(サーヴァント)」という――歴史の亡霊のような存在だからだ。
私は再び、ベッドの縁に腰掛ける。スプリングがきしんだ音を出し、質量のある存在がそこにあることを知らせる。
私は、質量のある存在として、今、ここに在る。
だが、ここに“生きてはいない”。
私はすでに――生きていない。私の人生は完結している。私という存在の器だけが残ったような存在だ。英霊とは元来、聖杯戦争で使役される使い魔であるが、今の私は聖杯戦争と関係なく行動している。元々、マスターがあって召喚された存在ではなかったが、チャールズ・バベッジに依頼されて、あまりに度を超した殺人事件――「人類史そのものを殺害する」という事件を“解決しよう”と動いている探偵、それが今の私だ。
右頬が右肩に触れるくらい頭を傾け、全身の力を抜く。ゆらりと体が揺れてベッドに倒れる。ぽすんと間抜けな音がして、埃が宙に舞った。
なのに私は――何をやっているのだろう。
先ほどの自分の行動を思い返す。
新聞に載っていた未解決事件の犯人を――推理し、真相をマスターに語ってしまった。探偵としては間違いない行動であるが、英霊の振る舞いとしては正しくない。本来の歴史ならば、解決されるはずのない事件だろう。
私の助言をあのマスターが真に受けて、警察に進言してしまえば、本来ならば現時点で解決しないはずの事件が、解決してしまう。歴史に歪みが生じてしまう。
瞬きを繰り返しながら、私は己の手のひらを見つめた。
私は何をやっているのだろう。
どうしてここにいるのだろう。
推理は私の十八番のはずなのに、うまく答えに辿り着けない。
いや、単純な話だ。
私は依頼人から頼まれて、事件解決のために動いている。それだけではないか。
単純な話だ。
身を丸めて、自らの腕で自らの身体を抱きしめる。私の身体はたしかにここにある。
私は探偵としてここに在る。
ふと、今、この時代にはどれだけの未解決事件があるのだろうと考えた。もし仮に、それらに私が関わることができたとすれば、どれだけの事件が解決するのだろう。
自信をもって、すべてだと断言することができる。この自信が、生来の私のものであるか、英霊として何かしら外部の影響を受けてのものであるかはっきりしないが、溢れる自信はたしかにあった。
嗚呼、くだらない仮定だ。それらのどれにも私は関わることはできないし、それを世に残してくれるワトソン君もどこにもいない。
「大丈夫」
私は目を閉じて呟いた。
「大丈夫」
私は何も間違ってはいない。
何故なら私は、探偵の祖であり、「明かす者」の代表だ。英霊シャーロック・ホームズ。それが私だ。
次の日、私は午前中のうちに、丘を越えたところにある研究者の家に行った。
しかし、その研究者の姿は家のなかになく、あるのは「大量の血液」だけだった。ふむ、と顎に手を置いて考えながら血痕のまわりをぐるりと一周する。この血液が家主のものとするならば、彼はすでに生きてはいないだろう。部屋のなかが荒れていることや何か重い物を引きずった跡が入り口まで続いていることから、何らかのトラブルがあったことは明白である。それとあわせて考えると、やはりこの血痕は研究者本人のもの――と結論付けて間違いなさそうだ。
私は血痕をまたいで部屋の奥へと進んだ。ドアが一つあり、中途半端に開いている。自分の手袋に汚れがないことを確認して、最低限の接触に留まるよう気をつけながらドアを開く。そこは家主の書斎であるようで、ドアがある以外の3面はすべて本棚となっていた。私は書斎の入り口で立ち止まる。
足の踏み場がなかったからだ。
棚に収められた本が、すべて床に落ちており、棚のなかは空っぽになっている。乱雑に折り重なる本のなかには破られているものもあった。恐らく誰かが――私と同様にかの研究者に目をつけた、もしくは私のような存在を恐れて先手を打ったか。私は一番近くに落ちていた本を拾い、ぱらぱらとページをめくった。おそらく私が探している人物のものであろう手書きの文字が、ページの端々に書き込まれていたが、私が必要としていた部分だけがピンポイントでびりびりに破れており、望んでいた情報はまったく手に入らなかった。
だが。
私が望んでいた情報が消されているというならば――つまりは、私が望んでいた情報がここに記されていたということになる。
ゆえに、私の考えは、間違っていなかったということだ。
それが確かめられれば、十分だ。
推理の方向性さえ分かってしまえば、証拠はほかにいくらでも集められる。結論は一つであるが、その道筋は一つではない。目指すべき建物が一つしかなくとも、そこへの行き方が一つでないのと同じだ。目指すべき建物がわかってしまえば、そこへの道を見つければいい話。
しかし、これだけ念入りに私が求めていた情報を消しているというのならば、ほかの証拠も同様に消されている可能性が高い。
私がこの時代、この場所にいることがあちらにばれている。つまり――もはや「この時代」に用はないということだ。
また違う道を探さなければならない。
近いうちに、違う時代、場所へレイシフトする必要がある。そのために必要なものをいくつか揃えなければならない。
マスターのいない単独のレイシフトは、霊基に膨大な負荷がかかる。それをなるべく分散する術式を組み立ててはいたが、何かの拍子に致命的な損傷を受けないとも限らない。そのためにレイシフトには念入りな準備が必要だった。
次こそ、私は消滅してしまうかもしれない。その最悪の可能性がふと心をよぎったが、頭を振って払い飛ばした。
何を弱気になっているのだろう。
「大丈夫」
私は中折り帽を被り直した。

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