探偵のエクリチュール

 あの「シャーロック・ホームズ」が英霊として存在した、と知ったときの、あの喜びを、私は言葉にできない。

 私は、ようやく、精神のよりどころを見つけた気分だった。
 すべてを見通し、すべてを明かす者。世界を相手取る顧問探偵。数々の愛好者やパスティーシュを絡み取った結果だろう、彼は小説のなかのそれよりも、完成されすぎていた。純化されすぎていた。中性的な井々たる容姿に、その細身に似合わぬ誰かを打ち倒すための武力。調停者としての彼。
 魔術師としては中の下ランクだった私に、その存在はとても眩しく映った。
 おそらくそれは、逃避だったのだろう。
 わかっている。
 自覚している。
 憧れという形をとった、現実逃避だった。
 人類史丸ごとを救うという大任のなかで擦り減った心から目を逸らすための。
 カルデアスタッフの中には一定の割合で、そういう人間がいた。
 七つの特異点を潰している最中は、疲労や圧力に負けている暇はなかった。常に切羽詰まっていたし、常に緊張しきっていた。自分たちが世界を救おうとしているという、どうしようもなく規模の大きい自己肯定による高揚も手伝っていたと思う。何より、一体感があった。我々が世界を救うのだ、という一体感。誰もが一所を見据えていた。
 しかし、人類史を救い、世界がもとに戻ると、今までの無理に、かかっていた圧力プレッシャー に、押しつぶされかける人間がちらほら存在していた。無理の皺寄せがきただけではない、人理修復によって元通りになった世界そのものを、受け付けなくなっていた人間も存在していた。
 我々や英霊が必死になって守ってきた世界は、綺麗でもなんでもなかった。勿論、尊いものだ。そのなかに生きる人々の営みの美しさも理解している。
 しかし――しかし、我々が多くの犠牲を出して、絶え間ない緊張のなかで守ってきたものを、自ら捨てる者がおり、躊躇なく破壊する者がおり、価値も考えずに笑う者がいる。以前までさほど目に入らなかったその事実は、一部のスタッフの心を日々消耗させていった。
 私も、そのなかの一人だった。

 夜、うまく眠れなくなった。リツカが目の前で、そこにある現実として見たのであろう報告書のなかに書かれていた悲惨な光景が夢に現れ、一晩に二、三回飛び起きた。そして一定の時間起きていられなくなった。耳鳴りの発作があった。当たり前にあったはずの、当たり前の清濁が、わからなくなっていた。日常の味を忘れていた。どんな刺激物も、私の舌には毒だった。あらゆるものに当たり散らし、あらゆるものに怯えていた。世界が怖かった。救われたはずの世界が完璧なる美しさをもっていない事実をどう受け止めていいかわからなかった。
 私は消耗し、常に苛立っていた。
 私と同様に消耗したある者は、合法すれすれの薬物に手を出し、ある者は暴力に走り、ある者は私のように何かを崇拝することで精神の均衡を保とうとした。
 そして私は、その圧力から逃れるために選んだのが、私がそれなりに愛し、それなりに見知っていた「シャーロック・ホームズ」という存在だったのだろう。
 それは世界を明かす者。
 真実という刃で悪を断ち切るもの。
 純粋な正義。
 人間のための、完璧な美しさ。
 私は彼に拠ることで、数十日ぶりに、夜、一度も飛び起きず眠ることができた。
 もしかしたら人類はすべていなくなっていたかもしれない――その途方もない、しかし確りと現実であったその事実に、平和な日々が戻ってきて押しつぶされたものがいた。皮肉な話だ。

 彼らはもはや、まともな人生を送れなくなっていた。
 彼らはもはや、日常に戻ることができなくなっていた。
 彼らはもはや、死んだ方が楽だと悟りきっていた。
 私はそれを、痛いほどよくわかっていた。

「行方不明になっているスタッフたちは皆、情緒不安定になっていて、生きることが苦痛だったというわけだ」
 皆、わかっているのだ。
 だから――複数人が行方不明になっているにも関わらず。

 この場所はこんなにも静かなのだ。

 どうか彼らに安らぎあれと。

「彼らの生き地獄をよくわかるキミは、彼らを殺した」
 探偵の言葉に、私は彼らの首を絞めたときのことを思い出す。
「地獄から解放した」
彼らが笑っていたことを思い出す。
「そして同時に、キミ自身も地獄から逃した」
私が泣いていたことを思い出す。
「私の声が聞こえない――それはキミにとって、あの地獄に再び引き込まれることと同義だった。私の存在によって再び安定を得ていたキミは、私の存在を薄めるわけにはいかなかった」
「違います」
 ホームズの白い手袋の上に、ぽつりと水滴が落ちて染みを作る。ぽつぽつと、室内で雨が降るように、手袋が濡れていく。ホームズはそんな些細なことを気にしていなかったけれど。
 これで、私はこの十日間、四回も泣いたことになる。情緒不安定と言われても、仕方ないだろう。
「違います、違います――私は何の罪もない人間を殺した。私は、貴方の声を聴くためだけに彼らを殺した」

 人間を辞めたのは、“私だけ”だ。
 彼らは、ただの人間だった。
 人理を修復し、世界を救った、英雄まともなにんげん だった。
 だからカルデアの外で、人間として永遠に眠っている。
「私が悪い」
「嗚呼、キミが悪い」
 ホームズがあらゆる感情の感じ取れない声で続ける。

「『探偵わたし』を選んだキミが悪い」

 いいかい、探偵は謎を解明しなくてはならない、そこに謎がある限り、私はどんな結末があろうと詳らかにするだろう。そんな風に目の前の探偵は、私に言い聞かせると、彼の胸倉を掴んだままだった私の両手をはがした。
「私はキミを救う言葉はもたない。だがこう言うことはできる」
 真相を言うことができる。
 探偵が口を開く。

「キミは間違いなく“人”を殺した」

 カルデアスタッフの行方不明事件は、こうして幕を閉じた。

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