探偵のエクリチュール

「カルデアスタッフの住居スペースに来たのははじめてだよ」
 全力で走って乱れたままの呼吸が整わない。エネルギーの八割が呼吸に使われていて、意識が回っていて言うべき台詞が考えられても、それを言葉にするまで至らない。空気を吸って吐くという当たり前の動作が私の胸や肩を動かしている。私は自分がいつも眠りにつくベッドのすぐ横に座り込んだ格好で、入り口に立っている《彼》を見上げた。
「実に静かだ」
 そうだろう。
 リツカが暮らす場所は、図書室や食堂などの特別室と英霊の管理スペースに最も近いところに存在する。一方、スタッフの住居スペースは地上に近いフロアにあるものの、管制室やシミュレーションルームから離れ、端に固まって配置されている。
 皆、仕事から解放されここに来るときはくたくただ。
 仕事中はマスター・リツカに余計な気を使わせないよう、そして円滑かつ最大効率で仕事を進めるため、士気をあげてコミュニケーションを多くとることを誰もが心掛けている。だが、仕事が終わると僅かな休みで出来る限り休むために、自然と口数は少なくなる。だから、マスターが普段日常を送っている場所と比べれば、各段に静かだ。住居スペースには機械の類が少ないという、物理的な要因も絡むかもしれないが、空気が半分眠っている。
 ようやく呼吸が普段の調子に戻ってくる。私はベッドの枠組みに手をかけ、よろめきながら立ち上がった。ホームズは部屋のなかへと歩みを進める。ホームズがセンサーの範囲から外れたために自動式のドアが彼の背後で閉まる。
「さて――陳腐な台詞だが、言うことにしよう」
 私の顔には、きっと、勝利の表情が浮かんでいたはずだ。
 そう。
 私はこの瞬間を待ち望んでいた。
「キミもそれを望んでいるのだからね」
 走り続けたせいではなく、心の底から湧き出る歓喜によって、内側から呼吸が乱れていく。せっかく落ち着いた横隔膜が、再び動き始める。

「スタッフが行方不明になっている一連の事件の犯人は――《キミ》だ」

 彼の瞳は、まさしく名探偵のそれだった。

 勿論、現実の名探偵に出会ったことがあるわけはない。n=0だ。
だが、私が探偵小説のなかで出会う名探偵の瞳を現実に引っ張り出すとすれば、きっとこういう瞳をしているのだろうと、私は確信していた。
 何もかも見通していそうな、澄んだ瞳。美しいという形容は一歩遅れてやってくる。それに先んじて本能的に感じられるのは、鋭利である、というそれ。力ではなく、知性でもって誰よりも優位に立っている、そういう瞳だ。
 ええ、そうです! と私は歌うように肯定した。
 そう。
 私はこの瞬間を待ちわびていた。

「私は貴方の声をずっと聴いていたかったから」

 私は、私の探偵のために。
 彼らを殺したのだ。

(人間がつくるすべての謎を解明し、すべての悪を打ち砕く、世界の顧問探偵のために。)

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