MODELING AND SIMULATIONS OF a DETECTIVE BEHAVIOR SEMIOSIS BASED ON PROTOCOL ANALYSIS

7.

 ほんの少しだけ、地平線の向こう、ごつごつした氷の凸凹の向こうに太陽が見えた。
 ざくざくと、雪を踏みながら歩く。手首にはめた時計を見ると、カルデアを出てから三時間経っていた。疲労を感じ始めているが、歩くのがつらいほどではない。
「ワトソン君」
 いつの間にか私の横に並んでいたホームズが、戸惑いを滲ませながら声をかけてくる。この男も困ることがあるのだと、私はぼんやり考えていた。
「霊基が影響を受けている」
「……それは、つまり」
「マスターが令呪を使ったようだ。『英霊、シャーロック・ホームズはリツカ・フジマルの前に姿を見せるように』と。カルデア内に姿の見えない私を、心配したのだろう」
「……」
 リツカ・フジマルが困った顔でカルデア内にホームズの姿を探している光景が思い浮かんだ。マシュ・キリエライトもきっと一緒に探しているだろう。
「生憎、私は元々正規のやり方で召喚されたわけではない。令呪の影響も通常のサーヴァントよりは弱まっている。可能な限りフェイトシステムの影響がないよう、カルデアを出る前に細工もしてきた。だが、二、三と令呪を重ねて命じられれば、私といえど、戻らざるを得ないだろう」
 そうか。
 ここまでか、と私はふっと目を閉じて、そして開いた。
 はじめから、無茶な話ではあったのだ。
 それをどこかでわかっていたにも関わらず、私は脱力してその場にしゃがみ込んだ。あー、と情けない声をあげて尻をつく。水平線ぎりぎりに輪郭の端だけ現れた太陽が眩しくて目を細める。
 私のすぐ隣に、ホームズが腰を下ろした。
「楽しかったよ。ありがとう。私の我が儘に突き合わせて悪かったね」
 ホームズは首にまいていたマフラーを解いて、しゅるりと外した。気づいたときには、彼は手を開いていた。風に煽られてマフラーが飛んでいく。
「言い出したのは僕の方ですから」
そしてコートの裏に手を差し込んでそこからパイプケースを取り出すと、ファスナーを空けていつも銜えているパイプを取り出した。慣れた手つきで煙草の葉を用意して火をつける。
「カルデアに帰ったら、あなたはまた、『英雄』にならなければいけないんですか」
「嗚呼」
「自分が知らない記憶や嗜好が頭のなかにあるのを知りながら、その身で在り続けなければいけないんですか」
「嗚呼」
「『真実』を追うという振る舞いとは矛盾するその宝具で、現実を改変し続ける自分をよしとしなければならないんですか」
「嗚呼」
「大切にしていた存在の、ジョン・H・ワトソンの記憶をすべて失ったままでいるしかないんですか」
「――それが、シャーロック・ホームズに課された枷だ。私はシャーロック・ホームズだ。望もうと望まないと、私は探偵で、『明かす者』で、英霊だ」
「……ッ」
 私は隣に座る彼の首を掴んだ。膝を地について、彼の首を両手で掴んだ。その衝撃でホームズが持っていたパイプを落とす。南極という世界の端である地の上に、ガツンと音をたててパイプは落ちた。
「コナン・ドイルが発表した『あなたのしょうせつ』を読みました。そのなかのあなたはたしかにかっこよかった。名推理は惚れ惚れとするほどだった。でもそれらはすべて、ただの人間の行いだったじゃないですか」
 世界を退屈に思って。
 目の前の現実に対処して。
 あれは、神話でも、伝説でもない。

 ただの男の「日常ものがたり」だったじゃないか。

「あなたは、ただ生きていただけじゃないですか」
「……キミは、私を殺すつもりなのか?」
「死んだ方が楽だとあなたが思うなら、私は友達として、あなたを殺すことができます」


「キミは私を助けてくれるのか?」


 泣いていた。

 シャーロック・ホームズは泣いていた。
「緋色の研究」を読んでいたあの時のように、泣いていた。
「友達ですから」
 私は指先に力をこめようと、己を奮い立たせ、何度も何度も彼の首を絞めるシミュレーションを脳内で繰り返し、そして。
 彼との出会いを思い返して。
 私が殺す側だというのに彼との思い出を走馬灯のように思い出して。


 気づいてしまった。

 ここに至るはじめの一言が、あのアーチャー、ジェームズ・モリアーティのものであったことを。
 ああ、そうか。
 私はここまで、誘導されてきたのか。
 シャーロック・ホームズを殺すための、犯人として。
 探偵を殺すための、道具として。
「そうか」
 ホームズは、何もかもわかっている「探偵」としての口調で、何かを納得した。たぶん、私の気づいたことに、彼も気づいたのだと思う。それが、世界で最高の探偵の知性だ。
「帰りましょう」

 ざくざくと、固くなった雪を踏みしめながら私は歩いた。ホームズは私より前を進んでいて、他愛無い世間話をしている。まるで普通の友達のように。私はそれに友達のように相槌を打ちながら、歩いていた。
「日本には、四つの季節があるらしい。シキ、と呼ぶのだそうだ。私は興味を惹かれないが、ワトソン君はどうかな」
「僕は、そういう、いかにもポエトリーな話、嫌いじゃないですよ」
 私は歩いていた。
「なるほど。日本の春を代表する『桜』という花があるそうだ。マスターが教えてくれたよ。キミも彼から教えてもらうといい。多くの歌や詩に描かれているそうだから」
 私は歩いていた。
 歩いて。
「あなたは好きな花とか、ないんですか?」
 そうだ。
「花? そうだな、強いてあげるならば、薔薇の美しさは嫌いじゃないよ」
 私に探偵は必要ない。
 私は、探偵を必要としない。
 なぜならば、私は彼を友達と思っているからだ。
「薔薇? 随分と気障ですね」

 私は「探偵シャーロック・ホームズ」など知らない。

 私は、結局、彼を「探偵」というカテゴリから、「英霊シャーロック・ホームズ」という枠組みから、出すことができなかった。
 私は彼との逃避行に失敗し、彼は英霊としての存在に戻る。その結果を変えることはできない。そして、カルデアに戻った彼にあるのは――私の主観で言い切ってしまえば、地獄だ。

 だからどうか。
 どうか。
 せめて。
 彼の、今あるその意識に安らぎを。

 そう願った者がいることを、私はここに証明する。

(私に探偵は必要ないのだから。)

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