8.
「ふむ、なかなかの大作だったのだが」
モリアーティはそう呟いて、羽のついた鵞ペンを机に置いた。
「MODELING AND SIMULATIONS OF a DETECTIVE BEHAVIOR SEMIOSIS BASED ON PROTOCOL ANALYSIS(分析に基づく探偵行動の記号過程の解読とシミュレーション)」と、ペンのすぐそばに置かれた便箋の一番上には書かれている。
背後でドアが開き人の入ってくる気配がしたが、あれは我が宿敵の気配だろう。くるりと椅子を百八十度回転させ、部屋に入ってきた人物と対面する。
やはり、そこにいたのはシャーロック・ホームズだった。
相変わらず無駄に端正で、無駄に若々しい顔をしている。その顔が、いつもより冷えているように見えるのは気のせいだろうか。
「私の勝ちだ、モリアーティ」
モリアーティはホームズの勝利宣言を、素直に受け入れた。
「そのようだね。君がここにいるということは」
「途中まで――彼が私を殺そうと試みるまでは、キミが思い描いたシナリオ通りに進んだ――だろうが、彼はそこでキミの思惑に気づいた」
淡々と、「事実」を述べるホームズの口調は、普段と何ら変わりがない、憎々しいものだった。モリアーティが思い描いたように現実が進んだのなら、この場では、多少なりとも感傷的になっていてほしいものであったが。人間らしく苦悩するシャーロック・ホームズを、物珍しげに観察してやるつもりだったが。
「ああ、残念だ。実に残念だ、ホームズ。うまくいけば、君を殺すことができたのにねぇ」
「そうだね。しかしキミは、私を殺せなかった」
「見ればわかる事実を口にするな。馬鹿に見える」
モリアーティは小さく舌打ちをした後、人格を入れ替えたかのようにひょうきんな表情でくるくると椅子を回転させた。
「あーあ、実に残念だな~」
まあ、ホームズとの逃避行からの殺害は、計画の第一プランだ。あの――ジョンという名をもつ彼の利用価値は、ほかにもそれなりにあるだろう。マスター以外で、ホームズとほかにない関係を結んだ人物。肉体関係まである人物。使い方はいろいろとできる。
足を地につけて椅子を止める。三半規管がほんの僅かに狂って、ゆらゆらと世界が揺れる。その揺れと呼応するようにモリアーティは脳内で次のプランを考えていた。
その様子を見たホームズは、これ以上なく残酷に。
これ以上なく美しく。
これ以上なく苦しげに。
「私は言っただろう、『私の勝ち』だと」
微笑んだ。
「いや、彼の勝ちかな」
モリアーティは、彼の言葉の裏に存在しているだろう物の異質さに、気づいた。顔をあげると、ホームズの凄惨な微笑があった。
「彼は死んだよ」
「な……」
「彼は、探偵を必要としないことを選択した。彼は、最後まで探偵を必要としなかった。ジョンは自殺したよ、モリアーティ。自ら死を選んだ。殺人事件にも関わらず、一切探偵を必要としない、犯人が明らかな死に方を彼は選んだ」
呆然とするモリアーティを前に、探偵は犯人へその罪を告げるように、はっきりとした声でキミの負けだ、と、再度通告した。
「何故……一体私は、何の要素を見逃していた……?」
「教えてあげよう、教授。彼は私の『友達』だったということだ」
ホームズの言葉に、モリアーティがぐにゃりと口元を歪め、思い切り身体を仰け反らせて額に手をやり声をあげて笑う。
「は、ははは! 友達! 友達と言ったかね! 君が! カルデアで誰より孤独である君の! 人間に戻ることの許されない君の! 友達!」
「そうだ」
ホームズらしくない言葉に、なおもモリアーティは笑い続ける。性質の悪い冗談だと思った。計算を間違えた自分に対して、皮肉を言っているのだろうと考えてその性格の悪さに対抗しようと笑っていた。その姿にホームズも口角をあげるのがちらりと認識できる。ふと、今、視覚情報として処理したものに違和感を覚えて、モリアーティは態勢を戻した。
「まあ、もう死んでしまったのだけれどね」
さらりと、普段のように発せられるホームズの口調。先ほどまでの凄惨な笑みは継続されている。しかし、新たに付け加えられた一つの要素を前に、モリアーティは笑顔を消した。
「泣くなよ、ホームズ」
モリアーティがよく知る好敵手の細められた目尻から、透明な液体が細く垂れていた。はじめ、モリアーティはそれを血液だと勘違いした。垂れ流されるそれが重力に従って頬を伝い、雫になって地へ落ちるその流れにどうしようもなさを感じたからだ。感情によって現れたもの、というより身体の生理現象としてそこに流れている、抗えないものとして見えたからだ。
「私が、友達の死に涙を流すことが、そんなに不思議なのかい、キミは」
ホームズはその、生理現象にしか見えないそれを、本来ならば流れてはいけないそれを放置したまま、魂の死に際のようなあまりに美しい笑みを浮かべた。

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