MODELING AND SIMULATIONS OF a DETECTIVE BEHAVIOR SEMIOSIS BASED ON PROTOCOL ANALYSIS

3.

「ワトソン君」
 部屋の扉が開くことに気づくと同時に、ホームズの妙に明るい声が飛び込んでくる。私は読んでいた小説を閉じて、嫌々振り返った。こんな風に彼が浮かれているときは、大体薬物を摂取しているときだ。予想は的中し、焦点が定まらず理性を打ち捨てた様子のホームズがそこに存在していた。白いシャツの前をだらしなくはだけている。普段の態度が紳士然としているだけに、自然とその乱れに視線を向けてしまう。
「僕はワトソンではありません」
「今日の私は機嫌がいい」
 当然のように、彼は私の言葉を無視する。
「今なら、世界のすべてをどうにかできる気がする」
「無理ですよ」
 私は躍起になって、彼の言葉を再度否定した。ホームズはカルデア内で一、二を争う知性の持ち主として認識されている。「探偵」という彼の根本も相まって、マスターやスタッフを導く師のような扱いをされていた。その、自分の知性と比較するのもおこがましい頭の良さをもつホームズが、戯言を口にしている。まるで酒に酔った一般人のようなそのぐらつきに、私は奇跡を語る聖者のペテンを見抜いたような仄暗い高揚を感じていた。
「無理かな?」
 ホームズの瞳にも、私のそれと似た、仄暗い高揚が宿った気がした。
「薬物を使うのはやめたらどうですか。英霊はどうか知りませんが、くせになりますよ」
 私は偉そうにホームズへ注意できたことに満足し、読書に戻ろうと体の向きを机の方へ戻そうとしたが――椅子の背をホームズに捕まれて、できなかった。
「世界がつまらないからいけないんだ。それとも、キミが面白くしてくれるのかい?」
 何を言っているのかとホームズを詰ろうとして開きかけた唇を塞がれる。発しかけた言葉が咽喉で引っかかり、息が詰まった。空気を求めて更に開いた私の唇から一瞬顔を離したホームズは、私に酸素を取り入れさせるとまたすぐその乾いた唇を押し付けてきた。舌の先に何か柔らかいものが触れる。ホームズの手が両頬に添えられて、私はしばらく彼に成すがままにされていた。どうして抵抗しないのだろう、と私は他人事のように考えていた。突然の事態に思考が止まっていたのかもしれないし、世界に興味がないといいながら肉体的な欲望は残っていたのかもしれない。
ホームズの手のひらが、私の両頬から首筋を撫で鳥肌のたった私の肩、二の腕と肘を経て手首に辿り着いた。手首を握り、腕を自らの腰へ巻き付けるように誘導する。ホームズを抱きしめる形になった私の体勢に満足すると、ホームズ自身も私の身体に腕を回した。二人の身体が密着する。彼の体温が、服越しに伝わってくる。こうやって、誰かの体温を感じるのはいつぶりだろうか。私は否応なしに彼女のことを思い出した。死んだ彼女もこうして、私を抱きしめながらキスをした。触感と快楽を伴う思い出が、脳のひだの奥深くから蘇ってくる。
私は目頭が奥から熱くなってくるのを知覚し、その熱から逃げようとホームズの腰に回した腕に力を込めて引き寄せた。
かつて彼女とそうだったように私は十分にキスをしたあとでベッドに行って身体を重ねた。薬物のせいか、彼は半ば意識が朦朧とするまで快楽を求めにいった。私は彼の鎖骨を見つめながら、英霊も性行為で快楽を感じるのだなとぼんやり考えた。ずっと、頭に靄がかかったような有様だったが、大脳でないところ、たしか視床下部だったか、とにかく性的な快楽を感じる脳の部位だけは激しく活性化していた。普段は落ち着いた、品のある声を発する喉元が、嬌声と呼ぶにふさわしい、意味を失った音を断続的に発する機構に成り下がっている。
 


 隣で無防備に眠っているホームズは、すっかり乱れた髪をそのままに、ろくに蒲団も掛けないで呼吸を繰り返していた。陶器のような白い肌のせいで人形のようだけれど、その胸はしっかりと上下している。一体どんな夢を見ているのだろう。やはり、生前の夢だろうか。ここにはいない、“正しい”ワトソンとともに、ロンドンの街で活躍するような。それとも、覚醒しているときの記憶を整理するため、さまざまな要素が組み合わさった夢を見ているのだろうか。マグリットの絵画のように、足が生えた靴が出てきたり、屋上のドアを開けたら地下室だったりする、真実のない世界に身を置いているのだろうか。しかし、彼が理論の通らない世界に身を置いている姿がどうしても想像できなかった。夢のなかまできちんと秩序立っていそうな気がする。
 私はふと、思いついて音をたてないよう気をつけて体を動かすと、左の耳を彼の胸に押し付けた。
 何の音もしない。
 鼓動は聞こえない。
 しかし、彼は呼吸をしている。胸郭を上下させている。体温も感じる。
 だが、彼から心臓の鼓動は聞こえない。生きていない。彼は、生きてはいない。ただ、そこに『在る』だけだ。
 私はその時、肉体はたしかに私と同じであるが、背負う概念の容積はまったく異なるのだと強制的に理解させられた。
「中身、どうなっているんだろう……」
 私は生じた疑問を子どものようにそのまま口にした。マスター、リツカ・フジマルとともに英霊が戦っている様子をモニター越しに見たことがあるが、傷ついた英霊は血を流していた。つまり、皮膚の下には心臓があって、全身に血液を送っているということだ。ならば、鼓動は聞こえてこないがこの皮膚の下にも心臓があるのだろう。魔力をこめたナイフを突き立てれば、口から血を吐いて苦し気に眉をひそめるに違いない。
 彼の心臓は、ただ静止しているのだろうか。彼の存在と同じようにただそこに在るだけなのだろうか。確かめてみたくなる。私は彼の胸に耳を当てたまま、じっとしていた。
「確かめてみるかい?」
「……!」
 私は急に聞こえた彼の声に、びくりと肩を震わせてがばりと上半身を起こした。息を吸う気配がなかったので、何もない宙から声だけ降ってきたような感覚だったのだ。聞こえない鼓動に耳を澄ませていた私を驚かせるには十分な声量だった。
「私の胸を開いて、そこに心臓があるか」
 ホームズは私の方を見ておらず、顔を横に向けて遠くに視線を向けていた。
「人間らしい中身をしているか」
 英霊シャーロック・ホームズの中身。私は指先をメスに見立てて、彼の鎖骨の間からすっと腹のほうへまっすぐと線を引いた。ぴくりと彼が痙攣して目を閉じる。内臓と筋肉が詰まっているのか、何も詰まっていないのか。どちらもあり得る。
「――ワトソンはそんなことをする男だったのですか?」
 私は回答の代わりに問いを返すという、非常にずるいやり方をした。
 ホームズは目を閉じたまま、「さてどうだったかな」と呟き、眠ってしまった。ゆっくりと胸の表面が上下する。私は中途半端に目の付近へ被っていた前髪を邪魔にならないようどかすと、彼に背を向けて眠りの底へと降りて行った。

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