2.
回想。二〇一七年、七月。
「ああ、ここにいたのか」 後ろからそう声がしたのは、夜勤を終えて自分の部屋に戻る途中のことだった。カルデアのセキュリティ部門に所属する私は、入館者データの解析や建物内の見回りの他に、同僚らと交代で二十四時間体制の監視カメラのチェックを行っている。二十四時間体制である以上、月に数度の夜勤はセキュリティ部門の全員に必須だ。人理が修復されたのだからセキュリティレベルは下がると思っていたのだが、むしろ人理を修復してからの方が、細々としたチェックが増えている。所長代理のレオナルド・ダ・ヴィンチからの命だ。 後ろから聞こえた声は、明らかに、友達に声をかける気さくな口調だった。同僚の誰かだろうと早合点して振り向いた私の視界に入ったのは、知らない男だった。 いや。モニターや書類上でしか見たことのない男だった。
英霊、「シャーロック・ホームズ」。
その人だった。 しかし彼は、私が見慣れているインバネスコート姿ではなく、黒のロングコートに灰色のベスト、ワイン色のネクタイを身に着けていた。腰にあるはずの大げさなコルセットもない。コートは袖に腕を通しておらず、少し体を動かすだけで袖の部分と裾がふわりと揺れていた。
「“ワトソン君”」
彼は呆然としている私のそばまでつかつかと歩み寄ってくると、有名な相棒の名前を口にした。ただ、純粋に、事実を口にするように、違和感も、戸惑いもなく、真っすぐと、その単語を口にした。世界もその言葉を全面的に承認しているのだと深く納得してしまいそうになるほど、その言葉は芯が通っていた。 彼の原典を考えれば、その単語を発するのに自然体であることは何の不思議もないけれど、問題は、私が「ジョン・H・ワトソン」ではないということだ。「僕は――僕は、ワトソンという名前ではありません」 私は真っ向から彼の言葉を訂正した。カルデアに残っている記憶やマスター、その他スタッフの話を統合するに、彼は一筋縄ではいかない男らしかった。この対応で間違っていないだろうか。厄介なことに、私は――ホームズの対と同じく、「ジョン」という名前――をもっている。考えてみれば、カルデアに来る少し前、諸事情でアフガニスタンに滞在したこともある。共通点といえばその2点と、人間の形をしていることくらいだ。一般的に思い浮かべられるだろうワトソンの姿と私はどこも似ていない。知的でもないし、髭も生えていない。アメリカ出身で英語は話せるが、紳士たる毅然とした態度は微塵も取れていないだろう。 それに。 何より。
私は、“探偵を必要としていなかった”。
そのために、振り返ってシャーロック・ホームズの姿を認めたとき、無視してそのまま自分の部屋に帰る選択もできただろうが、私は思わず、彼の言葉を否定してしまっていた。 反射的に。 探偵の世界に関わることを、拒んだ。「それがどうした、ワトソン君」 しかし――シャーロック・ホームズは、「探偵」と呼ばれるにふさわしい、剣の切っ先を思わせる美しい瞳で私を見つめ、にっこりと笑った。
その日以降、シャーロック・ホームズは度々私の前に現れて、私のことを「ワトソン」と呼び続けた。巧妙に、ほかの人がいるタイミングは避けながら。おかげで、ホームズが何かと私に話しかけているという現状はカルデア内の人間に知られたものの、私が「ワトソンと呼ばれて困っている」という風に相談すると、気が狂ってしまった哀れな頭の持ち主を見る視線を向けながら苦笑いをされてしまう始末だ。本当に悪質だ。このカルデアにはホームズの宿敵、ジェームズ・モリアーティも召喚されているが、本当はこの男こそがモリアーティなのではないだろうか、と馬鹿馬鹿しい思いも頭をよぎる。モリアーティとは話したことがあったが、この男よりはよっぽど話がわかる人物だった。 これで彼の隣に本当のワトソンが居れば、彼がホームズであることに納得もいくだろうが、ワトソンはカルデアに召喚されていない。どの特異点でも姿を見かけていないので、座に登録されているのかすら、わからない状況だ。 そういう意味では、少し哀れな男なのかもしれない。 シャーロック・ホームズといえば、ジョン・H・ワトソン。その二人をセットにしないファンはいないだろう。誰もが知る最高のコンビとして、多くの国、多くの時代で愛されてきた存在なのだ。なのに、ワトソンはカルデアと契約していない。そもそも、英霊の座にいるのかも定かではない。 あれだけセットで描かれる相棒がいないのだ、少々感傷的になっても仕方ないだろう、と――はじめのうちは考えていた。 しかし、明らかに彼の態度に感傷は微塵も見られなかった。私が「ジョン・H・ワトソン」である、それを当然の理であると確信して私のことを「ワトソン君」と呼んだ。まだ、すがるような響きがあれば私も優越感のうちに彼を受け入れたかもしれない。ああこの男も友人を恋しがる人間なのだ、と気づくことができれば、その哀れな幻想に付き合ってやったかもしれない。 だが、彼はいつもの調子で私を「ワトソン君」と呼び続けた。
「僕は――僕はあなたの相棒でも、語り部でもありませんよ」
カルデア中の監視カメラの映像がモニターに映し出されているセキュリティルームで、何度目になるかわからない「ワトソン君」の呼びかけに、私はほんの少し、声を荒げた。
それからとうとう私は、不快感を露わにそう言って椅子から立ち上がり、近づいてきたホームズの身体を押し戻してしまった。今日の彼の服装は、黒いサテン生地のシャツだった。彼は、特有の片眉だけ持ち上げた顔でこちらを見やり、そうかい、と興味なさげに呟いただけだった。
「そんな冗談で寄ってきて、僕に何を求めているんですか? 僕が――犯人探しを求めているように見えましたか?」
私から何か、解決すべき事件の匂いをかぎ取っているというならば、お門違いだ。
私から何か、探偵の相棒となれる要素を見出しているというならば、不正解だ。
「僕は……『探偵』なんて存在を、必要としていません」
私の背後にあるモニターからの発せられた光が、私に押し戻され、ドアの横にあるパイプ椅子に腰を落ち着けたホームズの顔を青白く照らしている。ホームズは宝具展開時にやっているお決まりの指先を合わせるポーズをしようとして――人差し指が触れ合う直前、腕を下ろした。代わりに、スラックスのポケットから煙草の箱とマッチを取り出すと、優雅に火をつけて口にくわえた。ホームズといえばキャラバッシュパイプであったと記憶しているが、ほかの嗜好品もたしなむのか。少し考えればおかしいことではないとわかるのだが――私は、「ホームズ」のイメージから外れたその煙草に面食らって黙り込んだ。ホームズが煙を吐いて続きを催促する。
コホン、と空咳を前置きして、私は言葉を進めた。
「――あなたのような探偵小説に登場する『探偵』とは、現実に起こった事件の詳細を調べ、その事件の起因は誰なのか、どのような過程で起こったかを明らかにする人間でしょう」
「その認識が間違っているとは言わない」
「でしたら、やはり僕に探偵は必要ありません。いえ、正しくは、価値を見出せない、と言うべきでしょうか。僕は、事件の犯人や過程が明らかになったところで、何の意味もないと思っています。だから、『探偵』は必要ありません。つまり、あなたに付きまとわれても迷惑ということです」
ホームズは床に無造作に転がっていたジュースの空瓶を拾い、吸っていた煙草をその口でとんとんと叩いて灰を落とした。煙草を離した唇の両端は僅か、上がっている。
「何故そう考えたんだい? 『探偵』の必要性なんて、普通の人間は思考の俎上にさえ上がらないだろう」
「……」
私はモニター群の前にあるキャスターつきの椅子に座り直して、カルデア内を次々と映すモニターたちをまじめに見つめる仕事に戻った。世界のどこかの一場面が、次々と私の視界に入る。私はそれを見つめているだけの仕事をしている。
「僕の彼女は、中東でテロに巻き込まれて死にました」
彼女が死んだちょうどその時、私は人が死ぬ小説を読んでいた。
「彼女は大学の講師で、調査のために中東に行っていたんです。そこで、死にました。ほかの大勢の人と一緒に。テロの犯人は当初、わかっていませんでした」
ぱっ、ぱっ、とカルデア内のあらゆるところに設置された監視カメラの映像がモニターに映る。当たり前だが、そのどれにも彼女は映っていない。世界中のどの監視カメラを見ても、彼女の姿は映らない。彼女が死んですぐは、その事実は受け入れられなかった。寝室へ向かう前、最寄りのスーパーマーケット、彼女が住んでいた家の前、さまざまなところに彼女の存在を探していた。
「その少しあと、テロを実行した犯人が捕まりました。名前もわかりました。どのような人間かもわかりました。でも、世界は何も変わらなかった」
理由もわかった。
当日の行動もわかった。
つまり、すべては“明かされた”。
だけれど。
いや、当然のこと、だけれど。
世界は何も変わらなかった。
「悪と善がもっとはっきりしている時代であれば、少しは変わったのかもしれません。けれど今は、隣人がテロリストになるような時代です。そして、突然に、三千年の歴史が消え去ってしまうような時代です」
私はひっそりと自嘲した。
「つまり現代において、『探偵』の存在意義は、それこそ不倫調査や素行調査でしか役立たないのだと、僕は考えています。警察や裁判官のように、断罪までがセットであるならば、社会の秩序に組み込まれる存在ではありますが、“明かすだけ”のものに、この現代で価値があるとは思えない。勿論、エンターテインメントととしての『探偵』は優秀です。逆を言えば、『探偵』の存在はエンターテインメントでしかありえない」
私が彼の根幹である「探偵」を否定しても、彼はずっと微笑んでいた。それどころか、彼は口を開くと「それでいいんだ」と私を肯定した。
彼は、その知性ゆえに私には理解不能な言動をとることが多々あり、私はそれをなんとなく「まあそういうものだろう」と深く考えずに流していたが、さすがに今回のそれは、理解不能というよりは、何か聞き間違えたのではないかと思える不可解さで、思わず、ぽつりと言葉をこぼした。
「あなたのことがわかりません」
それでいい、と彼はもう一度頷いた。
「それでいいんだ、ワトソン君」
だから僕はワトソンではありませんよ、と私は何度目になるかわからない言葉を、「探偵」に投げつけた。探偵という概念を代表する存在であるその男が立ち上がり、徐々に近づいてくる気配がする。もし彼に殺意があったら、絶対に私は勝つことができない。覆ることのないその事実が、私の背中を凍らせる。ただ、殺されることは怖くなかった。彼女がいない世界に生きる意味を、私は積極的に見いだせていなかった。惰性のなかで、日常のなかで、こんな、世界の終末に差し掛かる場所でさえ、私は何となく生きていた。
殺してくれるならばそれでいいかもしれない、と私は英霊と話をしているマスターが映るレクリエーションルームの映像を眺めながらたらたらと考えていた。
首に、私の背後に立つ彼の腕が回された。意識が冷える。しかし、私が彼の腕の次に捉えた感覚は、首筋に押し付けられる彼の髪の――頭の感触だった。ぐいぐいと、子どもが大人に甘えるように。
そして、昔、彼女が寂しさを感じたときにしていたように。
彼は、私に背後から抱きついて、頭を私の身体へ押しつけていた。私は、その懐かしい感触に死んだ彼女のことを思い出していた。惰性で生きていた私に、明るかった過去の記憶が接続される。私は、モニターの青白い光に照らされたまま涙を流していた。もし、この動作と私の死んだ彼女の関係を、ホームズがわかっているとしたら、相当に性格が悪い、と私は泣きながら考えた。

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