MODELING AND SIMULATIONS OF a DETECTIVE BEHAVIOR SEMIOSIS BASED ON PROTOCOL ANALYSIS

6.

 さすが、頭脳のクオリティでいえばカルデアでトップを争う英霊だった。一度決断してしまえば、その下準備と根回しのスピードはすさまじく、私が話をしてから二日後にはすっかり用意が整っていた。その日、私は監視モニターを観察し続けるだけの夜勤が入っていた。入り口のセンサー類はホームズによってすでにダミーデータが仕込まれている。
 コンコンとモニタールームのドアがノックされた。私はカルデア内を次々と映しだすモニター群を見つめたまま、椅子に座っていた。数秒してからドアが開き、「準備はできたかい」というホームズの声が聞こえた。私は立ち上がり、椅子の背にかけていた外出用の防寒具を羽織った。最低限の荷物をまとめたボストンバッグを持って、微笑を浮かべているホームズのそばに歩み寄る。彼はやはり、コルセットも、インバネスコートも身に着けていなかった。群青のストライプが入ったネクタイに黒いロングコート。私が近付いてきたのを確認し、灰色のマフラーを首に巻いて彼は改めて私に微笑んだ。本当にいいのか、とその瞳が私に問いかけている。私は頷いて、モニタールームのドアを開いた。ホームズは黙って後ろからついてきていた。
 ふと、ホームズが長方形の黒いバッグを手にしていることに気づく。
「それ、何ですか」
 私が尋ねると、ホームズはケースをぽんぽんと叩いて、にっこりと笑った。
「バイオリンだよ」
 時刻は午前三時。

 あまりにあっけなく、私とホームズはカルデアを出ることができた。ホームズのダミーデータは完璧に動作したらしい、入り口のセンサーはうんともすんとも言わなかった。元々、カルデアは入室時のセキュリティに比べて、退出時のそれはいくつかレベルが落ちる。
 カルデアの外に出たのは、入職以来、数年ぶりだ。前の職場PMCから逃げるように出てきてしまったので、再び外の世界に出る気分にはなかなかなれなかったのだ。彼女が死んで、この世界がどうでもよくなった、ということもある。
 午前三時の南極の地を踏みしめる。
 人工物の少ない南極の空は、私の故郷に比べて格段に星が多かった。私がカルデアにきたばかりの頃は、ダストンあたりがたまに星の観察をしていたような記憶がある。あの男には、何か言付けを残してもよかったかもしれない。私の姿が見えないとなったら、少しは心配をかけるかもしれない。
「ひとまず、降りるしかありませんね」
 カルデアは世間的に隠されている南極の山脈に存在する施設だ。南極には世界各地の基地が点在しているので、そこまでいけば保護してもらえるだろうが、その基地にたどり着くまでにどれくらい移動すればいいのだろう。
「ああ、歩いて四時間ほどのところに、緊急時用の中継基地があるらしい。今はほとんど忘れられているようだがね。そこにはデータ上は雪上車と食料があるらしい。まずはそこを目指そう」
「そんなものがあったんですか? 知らなかった」
 こっちだ、とホームズは地平線と暗闇が広がるだけの世界を指さした。

 こちらは頭まで覆うフード付きの防寒具であるのに対して、ホームズは冬のNYに出張に来たビジネスマン、という風な格好だ。端から見れば、随分ちぐはぐな二人なのだろうと私は想像する。鼻と口から息がもれるごとに顔の下半分付近が白く濁る。
 ホームズは私の数歩先を歩いている。時たま、夜空を仰ぎ、何か確認しながら進んでいた。星の位置から自分たちの座標を測っているのか。
「中継基地の車、動きますかね」
 私が足元の氷をごりごりと靴裏で削りながら聞くと、ホームズは振り向いて意地悪く笑った。
「動かしてみせるとも」
 その、自信とほんの少しの意地悪さでのみ構成される笑みに根拠のない安堵が胸を覆う。
「しかし――さすがの私も、南極を冒険することになるとは考えていなかったよ」
 その顔に浮かぶ笑みから自信が掻き消え、代わりに純粋な興奮が追加される。
「南極では殺人事件が起こってどうこう、っていうのはなさそうですもんね」
「そこはどうだろう、各国の基地があるのだから」
「でも、そこに行くには南極調査のチームに入らなければなりませんから……」
「それもそうだね」
 誰の目も気にすることなく、世間話程度の会話が進んでいく。
「南極を出たら、何をしたいですか?」
「……そうだね、今から考えておかないと」
「そんなに頭がいいんですから、研究者とか」「――とびきり高級な紅茶が飲みたい」
「……即物的ですね」
「キミは、どうするんだい?」
「そうですね……前の職場には戻りたくないですが、働かないと。また警備関係の仕事にはなるかもしれない」
「キミのその、世界を見放した目は、逆に警備関係に向いているかもしれないな。フラットに状況を見ることができるだろう」
「まあ、それは後々の話で、最初の一カ月くらいは、あなたについていってもいいですよ」
「そうかい」
「とびきり高級な紅茶は僕も飲みたい」
「いい店を紹介しよう」
「あと、彼女の墓に行かないと」
「ついていこう」
「たまに酔っぱらったら、『お前たちの世界は一回滅んだんだぞ』って、言ってしまいそうだ」
「きっと笑われるだろうね」
「冗談にしてはユーモアが足りませんよね」
「笑われて、酔っ払ったワトソン君は『本当だ』とムキになるのだろう」
「酔うのは僕が前提なんですか?」
 私は「ワトソンではない」と否定する言葉を挟まず、会話を続けた。そんな約束はもう必要がない。私がワトソンであろうがそうでなかろうが、今、彼と話しているのは私だ。彼と生きていくのは、ほかの誰でもない、私だ。
 嬉しくなる。
 新しい生活の気配に、胸が躍る。
 だが同時に私を襲ったのは、寂寥感だった。彼と私は、赤の他人。英霊と一般人。特別なつながりも何もない、本当に、すれ違うだけの、他人だ。
「そうだろう?」
「そうですけど」

 私は一旦、足をとめた。

 南極をシャーロック・ホームズと歩く、なんて字面だけで首を傾げたくなるような状況に自分が身を置くことを、これまでの人生で一秒でも考えたことはあるだろうか。絶対にないと言い切れる。それは未来まで、私が死ぬまでを見据えてもきっとそうだろう。今、この瞬間以外の私は、私のことを「何言ってるんだ」と笑うだろう。
 現実感が薄い。足をつけている地は雪で白いが、頭上に広がる空は絵の具を溶かしこんだように青い。カルデアも色が少ない方ではあるが、今、この場所よりはいくつかましだ。白、青。二色で大部分を占められた目の前の景色を見ていると、脳のなかからほかの色の記憶がさらさらと消えていくような気がする。
「あの」
 私が振り向いて呼びかけると、少し俯き気味に歩いていた彼が顔をあげた。緑。彼の瞳はきれいなグリーンだ。色の記憶が、戻ってくる。
「とても今更なんですけど」
 私は、過去の私、未来の私、つまり「今」でない私のために言い訳をしようと口を開いていた。
「何の関係もない他人同士が、南極をただ歩いているのっておかしいと思うんです」
 せめて。
 何かの。
「だから、あなたと僕は」
 言い訳を。 


「友達ということでいいですか」


 ホームズは首元に巻いたマフラーに顎先をうずめると、ふふ、と笑った。何がおかしいんですか、と私は自分の放った台詞の滑稽さに今更気づきながら、眉をひそめた。
「そんなこと、今更だろう、ワトソン君」
 いつもと同じ、たった一つの真理の輪郭をなぞるような、はっきりとした、透明で穏やかな口調でホームズは言った。それは探偵の口調であったが、カルデアを離れた今、彼は『彼』にしか見えなかった。私が知っている、知り合いの男に過ぎなかった。

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