MODELING AND SIMULATIONS OF a DETECTIVE BEHAVIOR SEMIOSIS BASED ON PROTOCOL ANALYSIS

5.

 英霊シャーロック・ホームズは、パスティーシュを含む存在である。
 そしてその影響は、彼の人格にも現れている。

「シャーロキアン」という言葉を生むほどに世界中から長年愛されているシャーロック・ホームズのパスティーシュは二百を超える。原典の世界観を模した作品だけでなく、彼女が愛していたドラマのようにオリジナルのアレンジが加わったものもあるだろう。それぞれが本当に微細な影響しか及ぼしていなかったとしても――二百もあれば――自分の人格を見失うには十分だろう。
 しかし、ホームズは相変わらず、カルデア内を飄々とした涼しい顔で歩いていた。マシュ・キリエライトがファンらしい明るい顔で話しかけるのに美しく微笑んで応え、マスターがシミュレーターの結果をもってきたのを見事に解析して楽しそうに語っていた。レオナルド・ダ・ヴィンチが嫌味を込めて「探偵様」というのにパイプをふかして片眉をあげてみせ、私に「ワトソン君」と呼びかけ私に抱かれた。

 ホームズは奥歯に力を込め、声が漏れないよう耐えていた。額に汗が滲み、前髪の一部が貼りついている。頭の横でシーツを掴む指は僅かに震えている。今、私に背中を向けている存在は戦闘用に生み出されたはずであったが、その腰は細く、がつがつと後ろからついているといつか壊してしまうのではないかといらない心配を催した。より奥へ至るために、鼠径部を掴む。手のひらに自分と違う皮膚の感触がある。私は特別、日の光に当たっている人間ではなかったが、私の肌の色と比べると、ホームズのそれはひどく白い。明かりがついていないせいもあるだろうが、青白く光っているようにも見える。静脈が透けて見えるのだ、という表現が成されることもあるが、ホームズのその青白さは、静脈血は関係がなく、単純に生命としての濃さが足りていないだけのように思えた。そういう、薄っぺらい青白さだった。
「ワトソン、君」
 快楽の隠しきれていない声でホームズがいつものように私を「ワトソン」と呼ぶ。
 彼が今、得ている快楽は間違いなく彼自身のものだ。今、ここにいるホームズが感じているものだ。パスティーシュのホームズではなく、「明かす者」なんて大それた名前の何かでもなく、ここで犯されている男の物だ。
 ホームズがちらりと私に視線を向けた。その瞳は潤んで、ほんの僅かに光っていた。
「はい」
 私ははじめて、そう返事をした。
 途端、ホームズの瞳に絶望が浮かんだ。今、視界のなかに捉えているものが絶望だというような、深いところに引きずり込まれた瞳。
 嗚呼、そうだろう。私はその絶望の深さを知っている。大切な者の名前を呼んだとしても、二度と正しく返ってこないと知ったときの絶望。この世界のどこにも、求めている存在がないと理解したときの絶望。
 世界に見捨てられたと、はっきり突き付けられるときの絶望。
 彼女はもういない。
 探偵が何度、彼女の事件を解決したとしても戻ってこない。
「――」
 私は、彼女の名前を口にしながら、身体を前に突き上げた。うん、とホームズが小さな声で返事をするのが聞こえた。

 目を覚ますと、卓上ライトの明かりがついており、机の上に置かれている一冊の本と机に向かう一人の男の影をぼんやりと映しだしていた。体を起こすと素肌の上をずるりと掛布団が滑り、まるで脱皮したような気分になった。
私は半分夢現の状態で、あれは誰だろうとしばらく考えていた。

 机の前に座る人物が、本のページをめくる。その動作一つにも意味があると考えているような、一つ一つの筋肉の動きすら制御すべき儀式のような、入り組んだ過剰とすら見える丁寧さが、ページをめくる動作から見て取れた。
 私はほんの少し肌寒さを感じ、自分が服を着ていないことに気づいた。同時に、眠りにつく前に行った性行為を思い出す。
「ホームズ」
 彼の名前を呼ぶときの脳と舌のぎこちなさに、私は彼の名を呼んだことがなかったことに気づいた。友人、として見られる程度には言葉を交わし、恋人、とまではいかないが複数回身体を重ねた後だというのに、私は探偵として世界で最も知られているその名を、呼んだことがなかった。
 多分、呼ばない方がよかったのだろう。
 今、私は言葉の選択を間違えたのだろう。それはもはや彼にとって呪いに近しい音の連なりであるのだから。
 だから私は、彼が返事をする前にベッドから這い出て、下だけ衣服を身に着けると彼の隣に立った。彼はきちんと服を着ており、再び過剰に丁寧な手つきでページをめくった。
「A…Study in…Scarlet……」
 私はページの欄外に記載されていたタイトルを声に出して読んだ。緋色の研究。ドイルが残したシャーロック・ホームズシリーズ最初の一冊。私も読んだことがある。
「私がこれを読んでいるのがおかしいかい?」
 ホームズが私に顔を向けて純粋に尋ねる。卓上ライトの光が顔の右側から当たって、左の方へ影を落とした。顔の凹凸まで整然とした造りになっているのか、影の形がきれいだ、と私は思った。
「いえ、単純な興味です」
 何を読んでいるのか気になっただけだ。ホームズはしばらく私の顔を見つめており、私は彼の顔に落ちた影を見ていた。
 先に視線を外したのはホームズだった。彼は再び本の上に綴られている己と相棒の物語へ瞳を向けた。
「この小説に描かれている事件の記憶は私の頭のなかにもあるからね。無論、正確でないけれど、これを読んでいると――」
 それ以上、言葉は続かなかった。
 私はホームズが続けようとしてかみ砕いた言葉を想像する。推理ではない、あくまで想像だ。私に探偵の真似事はできない。
 これを読んでいると落ち着く、とでも、彼は言おうとしたのではないか。
 先ほどまでの丁寧すぎる動作は、やはり儀式、だったのだろうと思う。自分を取り戻すための儀式。自分を安定させるための儀式。
「そうだ自分はこういう人間だった」と納得して、言い聞かせるための儀式。確認。気づかないうちに背負っていた知らない誰かからの逃亡。
 そんな、他愛ない、考えなしの想像に身をまかせていると、静寂に満ちた部屋のなかにぽたりと、微かな水音が響いた。私は我に帰り、無意識に今の音の原因を探そうと明るさの乏しいなかに視線を彷徨わせた。
 そしてすぐ、己の行動の軽薄さを後悔する。
 うろついた視線が見つけたのは、ホームズが読んでいた「緋色の研究」のページにできていた、小さなしみだった。
 本当に、気づかなければよかった。
 私の沈黙の質が変わってしまったことに、聡明な彼は気づいているだろう。つまり、私が本の上のしみを見つけたことを、彼はわかっているだろう。
 英霊も涙を流すのだな、と私は暗い目でそのしみをにらみつけながら思った。「助けてくれ」という呟きを、鼓膜で捉えながら。
 私はベッドに戻って、仰向けに寝転んだ。何もない天井が何も言わずじっと我々を見下ろしている。
「あなたの宝具の説明を、読みました」
 ――自らの起源である『解明』を宝具として昇華させたモノ。
――立ち向かう謎が真に解明不可能な存在であったとしても、必ず、真実に辿り着くための手掛かりや道筋が「発生」する。
「解明不可能なものも、解明可能な状態となる」
 再び、ページをめくる音が聞こえてきた。
「それはつまり、現実の改変ですよね」
 彼が、小説のなかの自分にすがるために、紙をめくる音が聞こえてくる。
「あなたは探偵だ。現実に残されている証拠から、真実を明かす者。すでに読者に開示されている現実を、実はこうでした、と後から変更することはルール違反です」
 けれど、彼の宝具はそれを良しとしている。「解明」のために、現実そのものを変更する。
 それのどこが、探偵なのか。
「あなたはもはや、『探偵』という寄る辺すら失って」
 ただの概念と成り果てている、と私は視線だけを天井に向け、その他の意識はすべて「緋色の研究」を前にするホームズに注いでいた。
「だから――ここから二人で逃げませんか」
 私は彼に同情していた。
 心底、感傷に浸っていた。
 しんと静まった部屋のなかに、水の垂れる音が聞こえた。きっと、「緋色の研究」に二つ目のしみができたのだろう。
「私は、私内部の状況を理解し、諦めて受け入れているつもりだ。だから、私は悲しんでいない。ならば、この涙は誰の――ものなのだろうか」
 私の提案については答えず、ホームズは淡々と言った。この話題にのれば、先ほどの私の提案はうやむやになって、カルデアでの日々が続くのだろう。
 私は深く息を吸って、そして同じ言葉を繰り返した。
「ここから二人で逃げませんか」

 いいだろう、と英霊シャーロック・ホームズは答えた。

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