WEB再録「旋律の欲塵」

あなたは一人で歩いてゆける

(セベリンとモブ町人)

 私は、憲兵長が血を吐くほどにひどい状態であることを知っていた。

 知っていて――黙っていた。

 今思えば、憲兵長の希望を踏みにじってでも、私は誰かに言うべきだったのだ。

 その先にどんな展開があろうと。

 きっとそうしていれば、彼はもっと長く生きていることができた。

   ★

 私は彼の死亡が報じられた新聞をぼんやりと眺めていた。時間が止まってしまったかのように、空気ごとアーツで凍らされてしまったかのように、私は身じろぎ一つせず、彼の死亡記事を眺めていた。彼の死亡記事は、社会欄の片隅に位置しており、名前、日付、死因、二行の彼の略歴が記載されただけの非常に簡素なものだった。リターニアは、ウォルモンドの暴動を忘れたがっている。彼の略歴も、ウォルモンドの憲兵長を何年務め、鉱石病による多臓器不全で死亡したということしか書かれていなかった。どのように、どうやってウォルモンドという町に貢献したのかは、一文字もない。

 私は三度、その記事をはじめからおわりまで読み通すと、それから二度瞬きをして、一度大きなため息をつき、ようやく椅子から腰を上げた。開けた窓に近づいて、吹き込む風によってはためいていたカーテンを窓枠の端へとまとめる。風が私の頬を撫でる。視界に広がるのは「ウォルモンド」の景色だ。ウォルモンドと名前のついた町の景色。

 商業都市として独自の発展をしていた、かつての姿は見る影もない。だが――暴動によって破壊された町並みは修復され、外部からの支援によって霧のように路地裏まで立ち込めていた不安は払拭されていた。食べ物に困ることもない。誰かが殴られて叫ぶ声を聞くこともない。自治組織は解体され、周囲の都市と合併されたが、住む人々に大きな影響はなかった。課題は山積みだが、人々は前へ歩き始めていた――彼を置いて。セベリン・ホーソーンを置いて。

 彼はずっと昔に、未来へ歩むことを止めていた。それでも彼が前へと足を踏み出していたのは、私たちが前へと歩いているからだった。

 彼はずっと――鉱石病であったのだ。その事実を、町民たちの誰にも言わなかった。彼は鉱石病によって呼吸器をやられていて、だからずっと咳をしていた。それを隠すために煙草を吸っていた。

 ある日、私は、路地裏で苦しそうに咳をする彼を見つけた。明るい大通りから一本入ったところ、ゴミがちらほらと散らばっている日陰の場所。彼は腕を近くの家の壁につけて体を支え、背中を丸めてぜいぜいと荒い呼吸を繰り返していた。

 私ははじめ、それが誰だかわからずに、話しかけたのだった。

「あの――大丈夫ですか? 近くの医者を呼びましょうか」

 私の声に、彼はびくりと体全体を震わせて、顔をあげた。特徴的な憲兵のヘルメットに、黒い服。屋根と屋根の間からわずかに差し込む弱い光でぼんやりと浮かび上がる顔は、ウォルモンドの責任者のものだった。その唇の端に黒い影がついている。彼がぐいと口元を手の甲で乱暴に拭うと、その影はズッと横に伸びた。

「憲兵長? 大丈夫ですか、それは血では……」

 私が駆け出して路地裏に入ると、憲兵長は明らかに動揺を見せた。

「心配ない。少し、喉がつまっただけだ」

 ふと彼の足元に視線を落とすと、口元にあったのと同じ影が、ぽつぽつと散らばっていた。私の見ているものに気づいた彼が、靴先で血の跡を隠そうと一瞬動き――すぐに止まった。すでに手遅れだと、諦めたのだろう。

 まだ苦しいのか、ヒューヒューと彼の喉が鳴っている。まるで、荒野に吹く風のような寂しい音だった。

 彼はよく煙草を吸って、周囲の人間に煙たがられていた。しかし、煙草のせいで血まで吐くだろうか? しかも、ここでは煙草の匂いがしない。今の咳は、煙草が直接の要因ではないのだ。

 かすかに、嫌な予感が頭をもたげる。

「憲兵長……。もしかして、あなたは他の要因で、肺か喉を悪くしているのでは――」

 恐る恐る口にした言葉を、彼が手で制した。その動作は、正解を表しているようなものだった。私はヒュッと息を飲み、その場に立ちすくんだ。ふるふると力なく彼が頭を振って、私の言葉を否定しようと試みる。しかしその――普段の彼からは考えられない、弱々しい動作は、逆に私の直感の正しさを強めるだけだった。

「少し――むせただけだ」

 かすれた声で。

「だから、言わないでくれ」

 彼が言う。

「頼む」

 私はなおも、その場に立ち尽くしていた。

「まだ、やることがありすぎる」

 その言葉とともに私に向けられた瞳は――光のほとんど届かない路地裏ではまったく輝きのないものに見えた。

 すがるような懇願に浸されたその色に私はぞくりと背筋を震わせた。

 いつも胸を張って誰かより一歩前に立っている男が――私の前でこうも弱さをさらけ出している。私は目の前にあるその事実にある種の優越を感じていた。

「わかりました」

 私は大それた犯罪の共犯者になった気分で、鷹揚にうなずいた。

 それから私は、彼の頼みに従って、誰にも、何も言わなかった。

   ★

 新聞で報じられた彼の死亡日は、一週間も前のものだった。おそらくおう、死体は処分されているのだろう。彼が守った人々のほとんどに死に顔を見せることはなく、彼は人生を終えてしまった。

 彼は、最期の瞬間に穏やかな気分でいられただろうか? 私が本当に彼の秘密を黙っていたことに、恨みを抱いていないだろうか? ウォルモンドの憲兵長であったことを、どこかで誇りに思ってくれただろうか? それとも、悔いていただろうか?

 わからない。

 私は間違えたのだろうか? リターニアの塔にいる馬鹿共のように? 武器を取って憲兵長たちに反抗した感染者のように?

 わからない。

 今となっては、私にできることは、祈ることだけだ。

 どうか。

 彼が死の国にたどりつく前に、いい夢を見られますように。

「旋律の欲塵」・了

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