演奏を続けよう
(エーベンホルツとモブオペレーター)
「ああ、あんたか! あんたがエーベンホルツ、だろう?」
気安く自分のコードネームを呼ぶ声に、エーベンホルツはその声の主を確かめるより先に眉間のしわを作った。
暴力や罵倒を向けるわけではないが、近寄りがたいオーラを纏っているエーベンホルツに積極的に話しかけるオペレーターは少なかった。例外は極めて気のいい人間か、何も考えていないちゃらんぽらんな人間だ。先ほど自分の名を呼んだ声には、微塵も配慮というものが感じられなかった。つまりは後者に違いないのだ。
嫌々ながらも振り返ると、そこにはエーベンホルツが見知らぬ顔のフェリーンの青年が立っていた。しかしすぐに無視して歩き出さなかったのは、彼が金管楽器――アルトサックスを手にしていたからだ。
「突然で悪いが、あんたはチェロを弾くんだろう? ちょっと俺に付き合ってくれないか」
「そのことを誰に聞いた?」
エーベンホルツは元々気難しく釣りあげている眉の角度をさらに鋭くして、刺々しい声をあげた。
楽器を演奏することを隠してはいないが、積極的に喧伝しているわけでもない。ドクターをはじめ何人かの顔が浮かんだ。
「ツェルニーっていうオペレーターだよ。ロドスではよくピアノを教えてる奴だ。自分よりふさわしい人間がいるって、あんたのことを推薦してくれたんだよ、エーベンホルツ」
すんと澄ました顔でエーベンホルツのことを告げているツェルニーの様子がありありと浮かんだ。あからさまに嫌な顔をしたエーベンホルツの様子を見ても、アルトサックスを持った彼は軽薄な笑みを浮かべたままだった。
「俺はクルビアでジャズをやってるんだ。知っているか? ジャズ」
名前は聞いたことがあるとエーベンホルツが答えると、彼は「リターニアでは人気ないのかあ」とわかりやすくしょげた。ジャズは即興演奏を取り入れた音楽ジャンルと本で読んだ。リターニアの、半ば学問的でもある格調高い楽曲を教育されてきたエーベンホルツには、好き嫌いというより、まず想像ができない分野だった。
「まあいいや。とにかく少し、練習に付き合ってほしいんだよ。最近、スランプってやつでね。スランプを抜け出すには新しい刺激、素晴らしい演奏だ」
「素晴らしい演奏? であれば、私はこれ以上ないほどに不適切だろうな。私の演奏は、結局のところ自由からは程遠いものだ」
厄介事を回避したいという気持ちもあったが、素直にエーベンホルツはそう考えていた。
ジャズという音楽分野に、自分の演奏はふさわしくないだろう。
「いいや、こういうのはやってみなければわからない」
尻尾をふりふりと左右に振りながら、彼はやたらと自信に満ちた声で答えた。こういう手合いは、実際に失望させた方が早い。
「――十分だけなら」
「そうこなくちゃ! あんたは、ロドスの甲板で演奏しているんだろう? そうしたらそこでいい。ああ、もうすぐ日没だ! ロマンチックだな」
青年は上機嫌で答えると、甲板に出る通路の方向へ軽やかに駆けて行った。エーベンホルツは彼と対照的に重い足取りで自室に戻ると、部屋に飾られていた愛用の――クライデが遺したチェロと弦をケースに入れて、甲板に向かった。
甲板にはフェリーンの彼がすでに待ち構えていた。エーベンホルツより先に駆け出していったのだから当然であるが、彼の姿が見えたとき、エーベンホルツの肩はずしりと重くなった。微かだが、頭痛の気配もする。
だが、まあ――この時間、甲板に出るのは悪くない。
彼が言っていたようにそろそろ太陽が沈む時間だ。ロドスの本艦も、周囲に広がる荒野も、フェリーンの身勝手な男も、彼の持つアルトサックスも、自分も、チェロケースも、すべてが燃えているようだ。どこか郷愁をかきたてられる色に染められる空間のなかに、エーベンホルツたちは立っていた。
「さて、それじゃあ始めようか」
フェリーンの彼はエーベンホルツのためにどこからか椅子を持ってくると、座板の部分をぽんぽんと叩いた。抵抗する理由はないので、チェロをケースから取り出し、腰を下ろす。暗いケースのなかへ押し込めてしまったことを詫びる意味をこめて、エーベンホルツはチェロ胴体をゆっくりと撫でた。
「俺のメロディーに、思ったように返してくれればいい。きっと、うまくいくさ」
そう言って彼は、リードに唇を当てた。アルトサックスの力強い音が、夕暮れ色に染まった空間のなかに響く。予想以上に、巧みな演奏だった。さすがに少し驚いて、エーベンホルツは彼の顔を見上げた。彼はすでに自分の演奏に浸りきっていて、こちらを見てはいなかった。リズミカルな、跳ねるような旋律に暴れ馬の手綱を引く感覚で、エーベンホルツは戸惑いながらチェロの音を乗せた。
うん、と彼が満足げに頷いてみせる。そして、先ほどまでの旋律をアレンジしたものを返してくる。なるほど、このように「会話」をしていくというわけだ。
弓を動かし、彼の「会話」に応える。すぐに彼から言葉の代わりに音の連なりが帰ってくる――いや、言葉も音の連なりに間違いはないのだけれど、言葉は意味がはじめにあり、その意味を表すために音を繋げる。しかし音楽は音の連なりそのものが、意味の本質となるのだ。そういえば、そのような話を雑談としてクライデとしたことがあった。
さらに彼が音を返す。感情が乗った、いいメロディーだ。エーベンホルツはジャズ風のこのやり取りを楽しみはじめている自分に気が付いた。
エーベンホルツが即興で組み入れたリズムを反映して、彼の音が変わる。一度緩やかになったかと思えば、爆発するように情熱的な旋律へ。言葉はないが、確かな「対話」がそこにはあった。互いの身分や状況が関係のない、音でのみ繋がる関係の中で行われる、純然たる会話。
楽しい、とエーベンホルツは再度、感じた。
自分がこのような即興形式に不慣れであり、向いていないのはよくわかっている。先ほどからずっと辿々しい仕草で弦を震わせているし、返す旋律も彼に比べれば単純だ。いくら学んでも、彼のように草原を薄着で走り回るかの如く軽やかで縛られない旋律を自分が得ることはないだろう。
嗚呼、そうだ、音楽は楽しい。
必然があったとはいえ、自分は確かにその感覚を知っていて、だからこそ今まで楽器を離すことなく生きてきたのだ。
久々に――思い出した。
――自分は音楽が好きだったのだ。
こうして誰かと音楽で「対話」することに、時間を忘れて熱中することができる人間だったのだ。
嗚呼、だが。
自分は、知っている。
これほど楽しくても。
もっと、楽しいことがあった。
もっと、「対話」をしたかった人がいた。
フェリーンの彼との即興的な「対話」も十分楽しいけれど、エーベンホルツは、より深く、より喜びを以て、ともに音を奏でられるキャプリニーの青年がいたことを、知っている。
だが、その青年と音楽を通じて「対話」することはもう二度とない。
二度と。
嗚呼――それはなんて、悲しいことなのだろう。
なんて、勿体無いことなのだろう。
不意に、旋律の調子が変わった。バラードに近い、ゆったりとした、物悲しい雰囲気になる。アルトサックスの心に沁みゆく音を聴きながら彼の気遣いに応える。エーベンホルツは両目から流れるものを拭うことはせず、弓を動かし続けた。
そうして彼はチェロのある利点を知った。
そうか。
フルートであればこうはいかない。
この楽器は。
――泣いていても、演奏ができるのだ。
エーベンホルツは夕暮れの中で、アルトサックスと即興の、チェロの演奏を続けた。十分だけという約束であったが、気づけば倍の二十分が過ぎていた。その頃にはあたりはほとんど紺色のベールに包まれていて、頭上には星がちらほらと輝き始めていた。フェリーンの彼は短いが心のこもった感謝の言葉を述べると、これ以上の「対話」は必要ないというように、颯爽と去っていってしまった。
一人残されたエーベンホルツは、ふと、弓を弦に触れさせた。そして引く。低い音が、夜を開始した空間に響く。涙は未だに止まっていない。けれども演奏を続けられる、この瞬間のなんと素晴らしいことか。
彼が演奏しているのはジャズではなかったが、それは確かな「対話」だった。
「光影」。
それが、今、エーベンホルツの演奏している曲の名だ。

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