ここは私たちの町
(セベリンとモブ町人)
(ある青年と、ある男の話。)
玄関前の階段に腰掛けて、ぼんやりと目の前の故郷の町並みを眺める。雑貨屋を営む親父に言われた買い付けに行かなければならないけれど、どうにも腰が重かった。
せわしなく行き交う人々の向こうに、この町でひときわ大きな建物である議事堂の屋根が見える。この町に人がいない光景は想像できるけれど、あの議事堂がなくなる光景を、俺はまったく想像できなかった。威厳のある建物だからというのもあるだろうが、なぜだかあの建物は、人々がいなくなってもなお、そこに在り続けるような気がしていた。
議事堂はウォルモンドを代表する建物で、休みの日には議事堂を見上げる観光客が、興奮のにじむ声をあげている光景を広間で見ることができる。
そんな声をあげるほど見て楽しいものだろうか。ただの建物ではないか――と、長年俺は、観光客に大してや斜に構えたしせんを送っていたが、まあ、楽しんでもらう分にはいいのだろうと近頃考え直した。
この風景は、俺にとって当たり前のものなのだ。
ここは、俺が生まれて育った町なのだから。
しかし、他の地方からの訪問者にとっては、当たり前でない風景だ。
だから――楽しいのかもしれない。
こんな、きらびやかなところも、変わったところもない、凡庸な風景でも。
「面白いものでも見えるのか?」
ほんの僅かに呆れの混じった声と共に、俺の体へ影が被さる。観光客たちがやるのと同じように見上げると、俺の目の前にはセベリン・ホーソーン憲兵長が立っていた。堂々とした体躯に黒い憲兵服がよく似合っている。腰から下げたサーベルは、少なくとも俺の知る限り抜かれたことがない。それは暴力のためではなく、権威の象徴として、彼に付随していた。
彼はこの町の責任者だ。この街の治安を維持する憲兵団を率いる彼は、よく町を見回っていた。無論、あのいかつい議事堂のなかで書類にハンコを押したり会議を開いたりしているのだろうが、俺は町を歩いているホーソーン憲兵長の姿しか印象に残っていない。
「面白いものなんて一つもない」
俺が答えると、「面白いものが一つもない町を、私は守っているというわけか」と言ってホーソーン憲兵長は短く息を吐いた。ため息というには苦笑が混じりすぎている。
「――だけどそれがいいんだ」
素直に、心に浮かんだままの言葉を、俺は続けた。片方の眉だけを器用に釣り上げて、ホーソーン憲兵長はポケットから煙草とマッチを取り出した。慣れた手付きでマッチを擦り、煙草の先に火を灯す。
「仕事はいいの? 不真面目だな」
俺が、じと、と赤く灯る煙草の先を見つめると、彼は煙を吐き出しながら肩をすくめた。
「何を言っている、これも仕事だ。私が見守るべき町のなかには君だって含まれている」
詭弁に違いなかったが、情けないことにホーソーン憲兵長からそう言われたことが嬉しくて、俺はにやける唇を律するため一度口を閉じた。こういうことをサラリと言えてしまうところが、憲兵長にまでなれた理由なのだろう。彼はあまり笑わない男であるが、憲兵長としての仕事ぶりから十分に、この町への、そして町人への愛を感じることができた。
他の町のことは知らないが――セベリン・ホーソーンは優秀な憲兵長であるに違いなかった。
俺たちの間から言葉が消え、代わり町の雑音が詰め込まれる。人々の行き交う足音、風が吹き抜ける音、それに家を修理しているのかトンカチを打ちつける音も加わっていた。雑然とした音たちは、俺が常日頃聞いている、なんてことのないものだった。けれどそれらはひとつひとつが、町に住む民たちの作り出すものだ。
「面白いものは一つもない。だけどそれが当たり前なんだ。ここは俺が住んできた町だから」
ぽつぽつと、先ほどの続きを口にする。ホーソーン憲兵長は、俺を見ずに守るべき町並みを眺め、目を細めて先ほどと同じように煙を吐き出していた。時折咳が出ていたが、俺の言葉を止めないように、極力抑えてくれているのが感じ取れた。
「ガキの頃はわかっていなかったが、“故郷”ってやつなんだろう、ここが」
友人のうちの数名は、刺激が欲しいだとか仕事を探すだとか理由をつけ、この町を出てリターニアの別の町へと移っていった。今のところ俺は、町を移るつもりはない。その必要性を感じなかった。両親がいて、弟がいて、それなりの数の知り合いがいて、観光客が知らない路地や美味い飯屋を知っているこの町が、俺にとっての故郷であり世界。俺はそれでよかった。
「今でも十分、ガキだろう」
「言われると思った」
ああ、セベリン! と元気の良い声が彼に浴びせられる。そばを通りがかった近所の魚屋の奥さんが、タッタッと小気味いいリズムで駆け寄ってきた。
「二件隣の家が、最近夜になってもうるさいの。何度か声をかけたんだけど聞きやしなくて……。どうにかしてくれないかしら」
「わかった。一度、様子を見に行こう」
「よろしく頼むわね」
彼は町の一部である俺の見守りを十分果たしたと判断したようだった。煙草を消してサーベルの柄に手を乗せ、彼は俺に背中を向けた。それは大人の背中だった。町を代表する者の背中だった。ああ、こうして彼の後ろにいる限り、俺は――町は、守られるのだろう。
遠くで鐘が鳴っている。夕方に毎日鳴っている鐘の音だ。もうすぐ遊びに出ていた子どもたちは家に帰り、大人たちは仕事をやめて、そして皆、夜になったらこの町のなかで眠るのだ。観光客たちのように、数日経ったらこの町を出ていって、思い出の写真のなかだけに収めることはない。
なぜならば、ここは俺の故郷の町だから。
俺の人生はこの町で終わるのかもしれない。けれどその終わりはきっと穏やかであるだろう。
ここは彼が守る町なのだから。
――一週間後、憲兵団がお貴族様の結婚式とやらに駆り出されてこの町を出た。ほとんどの憲兵団が町から出ることに不安を表明する人も居たけれど、セベリン・ホーソーン憲兵長がいるのだから、大丈夫だと、俺は思った。

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