a little concerthall
(ゲルトルーデとツェルニー)
窓を開く。
風が緩やかに吹いて、ゲルトルーデの丁寧に梳られた長い髪を靡かせていった。眼下には石で作られた古典主義的な街並みが広がり、厳かな風景を作り上げていた。しかしその調和を掻き乱すように、少し離れたところに前衛的な造形をした――オブジェらしきものが視界に入った。芸術作品にしては、大きすぎる。それは周囲の建築物と変わりない大きさをしていた。
ゲルトルーデは、重低音のハーモニーの中に突如ぶち込まれたピッコロの高温のような「それ」を見て、にっこりと一人で微笑んだ。あれは、ゲルトルーデが主導して作り上げたコンサートホールである。アフターグロー区と呼称される感染者住居区に建築された、文化施設。アフターグローホール。感染者に文化施設など必要あるものか、と醜悪な偏見から反対する貴族も少なくなかったが、それらを一蹴できるほどには、いつの間にか彼女は成長していた。それが良いことなのかわからないが、ゲルトルーデは多少なりとも、そしてそれが仮初であったとしても、「権力」というものを手にしていたのだ。
だけれどあれは、自分の貴族としての「権力」を誇示するものではない。
むしろ逆だ。
ゲルトルーデは満足げな微笑を潜めてアフターグローホールから視線を外した。その瞳には陰鬱な光が宿っている。
あのコンサートホールは、貴族とは関係なく、ゲルトルーデ個人の情念そのものだ。ずっと離れない憎しみと呪い、それから――。
ふと、ピアノの音が聴こえた。
それはゲルトルーデの心にじわじわと滲みだしていた情念をふっと拭い去った。彼女はハッとして、再び視線をコンサートホールへと戻した。複雑でありながら調和を感じさせるその建物の方向から、ピアノの音がしている。
――ツェルニーのコンサートが、始まったのだ。
世にも珍しい、感染者の作曲家。
ゲルトルーデは、彼の支援者だった。彼が大切にしている地区にあのコンサートホールを作ったのも、その場で彼がコンサートできるように手配したのも彼女であったが、今、彼女はホールの柔らかい椅子に座ってはいなかった。
「相変わらず、素晴らしい音ね」
ゲルトルーデは、誰が聞くわけでもないのに、ポツリと感想を漏らしていた。
いや、誰も聞くことのないこの空間だからこそ、素直に感想を口にすることができたのだ。
――これでいいのだ。
自分の観客席は、ここでいい。
窓枠にかけた指に力が入る。
ここは、アフターグロー区の外でありながら、コンサートホールの音がよく聴こえる。ホール内の音が外でも聴こえることに大して、ツェルニーは嫌悪感を示すかもしれないと懸念していたのだが、逆に彼は、「私の音が一人でも多くの方に届くのであれば、素晴らしいことです」と、ほとんどゲルトルーデに見せない微笑まで浮かべた。コンサートでの演奏というものは、金を払って目の前に来てくれた観客たちのためのものではないのか、とゲルトルーデが尋ねると、彼は音楽指導者としての厳格な顔つきになって、「勿論、私の演奏のために対価を払い、身体を貸し、時間を捧げていただける観客に私は努力を惜しみません。私は彼らのために音楽を奏でます。しかし、それとは別に、音楽を慈しむ権利は万人が持つものです」とキッパリ答えた。
ゲルトルーデはその時、表情には出さないまでも、密かに安堵していた。ツェルニーはこの部屋の存在を未だに知らないけれど――自分はホールから離れたこの部屋でホールから届く彼の演奏を聴くことを許されたのだ、そんな風に思った。
コンサートホールの客席よりも上等な椅子を窓際まで引っ張ってきて、静かに腰掛ける。
目を閉じると、頭の中はツェルニーの音でいっぱいになった。他の何も感じない。ただ、彼の紡ぐ音だけが、ゲルトルーデに外部の存在を認識させる。今、この世界には自分と彼の音しかない。嗚呼、なんて幸せなことだろう。そうだ。どんなに不幸なことがあろうと、どんなに世界を呪っていようと、今、この瞬間、ツェルニーの演奏を聴く自分は、確かに幸せなのだ。
一曲が終わる。
ゲルトルーデは目を開けると、椅子と同様に窓際まで持ってきていたお気に入りのハープに手をかけ、引き寄せた。
今日のコンサートの主催者であるゲルトルーデは、演奏される曲順を事前に知らされている。今日のコンサートは自ら演奏することの楽しさを改めて知ってもらうという趣旨で、ツェルニーが作曲したものの中でも、難易度の低い曲たちが選ばれていた。次の曲は、その中でも所学者向けのもので、ゲルトルーデも練習として弾いたことのあるものだった。
風に混じって聴こえていた拍手の音が止む。ツェルニーが姿勢を整えて、次の曲が始まるのだろう。目を閉じると、薄暗いコンサートホールの中でスポットライトを浴び、ピアノの前に座るツェルニーの姿がありありと浮かんだ。体の位置を調整して、燕尾服の裾を後ろに払い、小さく息を吸い込む。ゲルトルーデが何度も想像してきた光景だった。彼がいることで、アフターグローホールのステージは完璧となる。
誰にも邪魔できない、私だけの作品。
そう考えると、やはりあのホールは、巨大な芸術作品なのかもしれなかった。
ピアノの澄んだ音が、空気を震わせてゲルトルーデの鼓膜まで届く。シンプルだが、美しい旋律。それに合わせて、ゲルトルーデはハープの弦を弾いた。たくさんのもので汚れた指先で、旋律を作っていく。拍手の代わりに、この音を。賛美の言葉の代わりに、この音を。
あなたの音楽は素晴らしい。
あなたの音楽を愛している。
あなたの音楽に救われている。
あなたの音楽のようになりたかった。
さまざまな感情が心のうちに浮かぶが、それらは指先まで来ると、ただの振動になった。ゲルトルーデの奏でるハープの音は、どこにも届かない。自分以外、誰も聴いていない。
――これでいい。
温かで、手を引くような旋律が聴こえてくる。ゲルトルーデはその旋律に合わせて、曲が終わるまで一言も発することなく、静かにハープを奏で続けた。
(「ああ、ここにいらっしゃいましたか。主催者がホールにいないのはどうでしょうか……つかぬことを伺いますが、昨日、私のコンサートと同時刻に近場でコンサートが行われていましたか? 楽器の音色が聴こえたように思いまして」
「さあ、知らないわ。そもそも私が、そんなコンサートを許すわけがないでしょう、ツェルニー」)

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