WEB再録「旋律の欲塵」

作品599に寄せて

(ゲルトルーデとツェルニー)

 小さく息を吸う。このドアをノックするときはいつであっても緊張する。しかしその緊張は、父や兄と相対するときの手のひらにじっとり汗をかく湿ったものではなく、微笑ましい胸の高鳴りが混じったものだった。その胸の高鳴りにタイトルをつけるのであれば、「憧れ」として何ら間違いはなかっただろうが、それはゲルトルーデが彼に向ける感情として存在してはならないものだった。

 ドアの前で足を止め、襟元を整えた後に不遜な笑顔を貼り付けて、指を折り曲げノックする。彼の周囲の世話をしている女中の声が聞こえ、ややあってからドアが開いた。

 彼――ウィリアム・フィフター・ツェルニーはピアノの前に座ったまま、こちらを振り向くことはなかった。

「――新曲ができたと聞いたので、急いで参りましたわ」

「お忙しいところ申し訳ありません」

 言葉こそゲルトルーデを気遣うものだが、その声は非常にとげとげしく、一刻も早くゲルトルーデに出て行ってほしいと思っていることが明らかだった。女中が運んできた椅子にゲルトルーデが腰を下ろしてようやく、彼は彼女の方に顔を向けた。少し、やつれているように見える。また作曲を優先して寝食を疎かにしたのだろうか。彼のなかにある音楽への情熱は、時折、その生命活動すら燃やしてしまいそうに見えるときがある。

 きっと多くの聴衆――ゲルトルーデ自身も含めて――は、彼のその炎に魅せられているのだろう。

「今回も楽譜出版に関して、出版社の斡旋をお願いできますか?」

 ツェルニーは一番上にあったページに万年筆でサインを施すと、新曲の楽譜の束をゲルトルーデに差し出した。

「お安い御用ですわ」

 楽譜を受け取り、目を通す。今回の曲はヴァイオリンとヴィオラの二重奏。楽譜に描かれた音符をなぞる限りは、清廉なメロディーのようだ。

「せっかくですから、新曲お披露目のコンサートを開きたいところですわね。この新曲に、いくつか定番のピアノ曲を添えて」

 ゲルトルーデが提案すると、ツェルニーはあからさまに表情を曇らせ、ゲルトルーデへ陰鬱な光を宿した瞳を向けた。懇願するような視線であったが、彼女の提案を拒否する権利は彼にない。リターニアの貴族たちの自意識を満足させるために、ステージに上らされて自らの分身と言っていい曲を曝す。感染者の作曲家として容赦なく好奇の視線を浴びせられるなか、彼はピアノに向かう。そしてその曲の美しさに貴族たちを黙らせる。すでに何度も行われてきた「興行」であったが、ツェルニーが慣れることはないだろう。ツェルニーは都度、傷ついている。それでも作曲を続け、顔も名前も知らない誰かに希望を与え続けるのだから、彼には音楽家として真の才能があるのだろう。

 ゲルトルーデは何も、彼を傷つけるために貴族向けのコンサートを開いているのではない。あくまでもリターニア内で彼の立場を良くし、諸々の仕事をしやすくするために必要なことである。勿論、ゲルトルーデの立場に多少なりともプラスを齎していたが、ゲルトルーデの利益よりツェルニーの利益をとることもあった。彼がそれを知ることは永遠にないだろうが。

「……お好きになさってください」

「詳細が決まり次第、連絡します。……あら?」

 受け取ったばかりの楽譜をめくっていたゲルトルーデは、思わず声をあげた。その様子にツェルニーの顔から陰りが消える。どうしたのだろう、という純粋な疑問の気持ちから、彼の瞳がまっすぐとゲルトルーデを捉えた。

「これはすでに発表していた曲でしょう」

 ヴァイオリンとヴィオラの二重奏の新曲のあとに、かつてツェルニーが出版したピアノの教則本にあった曲の楽譜が続いていた。ツェルニーがまだ匿名で曲を発表していた頃――つまりはゲルトルーデがパトロンとしてつく前に発表したもので、多くのピアノ初学者たちに親しまれていた曲だ。ゲルトルーデがパトロンになってから、せっかくだからとまとめて教則本にして出版したのである。

「ああ。まだ私も作曲をはじめたばかりの頃の曲でしたから。今回、少し手を加えたのです。教則本の改訂版として出版できればと考えています」

 ゲルトルーデは顎に手を添え、しばらく楽譜を見つめていた。その様子に気づいたツェルニーが眉間にしわを寄せて元から神経質そうな顔つきをさらに剣呑なものにする。

「ふうん。そうね……これを演奏してくださらない?」

「なぜ?」

「元の曲からどれくらい変わっているか知りたいの。元々の教則本を発行している出版社にどう話を通すかの参考にするから」

「……」

「一曲だけでいいわ。この――作品599だけで」

 嘘だった。

 参考にする、というのは、嘘だった。

 ただ――ゲルトルーデが、聴きたいのだ。

 彼の、新しい「作品599」を。

 あまりに拙い嘘であっただろうか。密かに息をつめる。楽譜を握る指先に無意識のうちに力が入る。

「――わかりました。一曲だけでしたら」

 数秒の沈黙ののち、ツェルニーは頷いた。安堵が表情に出ないよう細心の注意を払い、ゲルトルーデは微笑み直した。貴族同士であれば、ゲルトルーデの嘘を見抜いていただろうが、ツェルニーはそこまで心の読み愛を得意としていない。それでよかった。

 彼が向き合い、どこまでも深く降りていくのは、音楽だけであってほしかった。

 演奏すると決めたツェルニーは、スッと気配を鋭くして、ピアノに向かい合った。身体の位置を細かく調整し、大きな手を優しく鍵盤の上に置いた。ゲルトルーデも女中も、背景の一つになる。今、この部屋に“在る”のはピアノとツェルニーだけだ。

 ツェルニーが鍵盤を押す。

 空気が揺れる。

 優しい音がする。

 難易度の低い、簡単な旋律の曲であるはずだが――ツェルニーが奏でる音は、芸術的な高貴さを以て静かに部屋に染みわたった。彼の表情はゲルトルーデに対する険のあるものではなく、穏やかな、慈愛に満ちたものになっていた。それは音楽教授としての、彼の表情だった。この曲を演奏するであろう、初学者たちへの慈しみが、僅かにあがった口角から滲んでいる。

 たしかに作品599は――ところどころ、変化を加えられていた。

 ゲルトルーデは、静かに目を閉じる。

 嗚呼、そうだ。この曲が。

 この――作品599だけが、私に優しくしてくれていた。

 自由のない日々。私を縛り付ける多くの視線。落ちぶれる父。無能な兄。それらをどうすることもできない私。屈辱の日々のなかで、この曲だけは――ピアノを弾く私を、温かく迎えてくれた。私のそばに、寄り添ってくれた。音楽を演奏する喜びを、私と一緒に感じてくれた。

 私を包む、温かな音色。

 目を開く。

 いつもは数段複雑な演奏をこなしている大きな手が、鍵盤の上をゆっくりと動いている。すでに曲は終盤に差し掛かっていた。元々練習用のもので、短い曲なのだ。

 終わるな、とゲルトルーデはひっそりと祈った。どうか終わってくれるな。終わってしまえば、自分に優しくするものは、誰一人として居なくなる。演奏しているツェルニーでさえ、こちらに冷ややかな視線を向けるだろう。

 ゲルトルーデの祈りは届かない。

 彼は音楽家なのだから。

 美しく終止符を打つことができる。

 最後の一音が、響く。ハンマーによって叩かれた弦の震えが、収まっていく。か細く続いていた余韻が、収まっていく。

 空気の震えが、止まる。

「ありがとう。素晴らしい演奏だったわ」

 ゲルトルーデは、手を叩いた。そういえば、彼の演奏に、こうして聴衆として賛美を送るのはいつぶりだろうか。久しく、彼のコンサートに客として参加していなかった。

 ふ、とツェルニーが柔らかな笑みを浮かべた。作品599に込められた慈しみと同じ、穏やかな音楽に対する愛を、ゲルトルーデに向けた。しかしそれはすぐに消え去り、後には生真面目な顔で、こちらをまっすぐ見つめる彼だけが残された。

「それでは、よろしくお願いします」

 ゲルトルーデは立ち上がる。

「ええ。あとはうまくやっておくから」

(あの日、私を救ったのは、たしかにあなたの曲だった。)

(しかしそれは、あなたではない。)

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