WEB再録「旋律の欲塵」

夢の話

(エーベンホルツ+クライデ、グレイ)

 ボリバル育ちだというペッローの少年――コードネームはグレイだったか――は、頭の上の耳を垂らしてひどく恐縮しながら「申し訳ありませんが、今日はここで野宿です」とエーベンホルツに告げた。本来であれば一日で目的地までたどり着くはずであったが、途中の感染生物に襲われたアクシデントで想定より距離が稼げず、ここで夜を過ごすしかないのだと、グレイはつっかえながらも丁寧に説明した。

 エーベンホルツは彼と数人のオペレーターでの任務中だ。ヴィクトリア郊外の荒野での救助活動支援。すでに現場で活動を行っている医療オペレーターたちへ追加物資を届けることになっていた。エーベンホルツは後方支援オペレーターでないのだが、彼らの護衛の一人としてついていくことになった。定期健康診断で本艦に来ていた時にドクターとばったり出くわしたのが運の尽きだ。よっぽど人手が足りていなかったのか、抗議の声をあげる暇さえなく、エーベンホルツは任務に駆り出されていた。

 グレイが手にしたアーツユニットであたりは昼間のようにとはいかないが、夜でも転ぶ必要のないほどには明るかった。グレイの灯りで照らされるのは、埃まみれの農具や萎れてくしゃくしゃになったじゃがいもの入った木箱ばかりだ。おそらくかつて周辺に住んでいた人たちが農業用倉庫として使っていたのを、そのままにして去ったのだろう。照明は天井についていたが備え付けの電球は割れていた。窓のガラスは割れており、風が吹き込んでヒューヒューと病人の喉のような音をたて続けている。明らかに、寝るための場所ではなかった。

 そうか、とエーベンホルツが鷹揚に頷くと、グレイは緊張をほどいてホッと息をついた。

「エーベンホルツさんはリターニアの上流階級の方だと聞きました。こんなところでの野宿経験はないですよね。不都合があれば、言ってください」

 真っ黒なコートに身を包み、ほとんど自分から話しかけるのことのないエーベンホルツは、グレイにとってみれば、「自分と違う立場の人」なのだろう。

「野宿の経験はないが、それは貴殿も同じだろう」

 エーベンホルツが言うと、グレイはアーツユニットの光で照らされた顔に遠慮がちな微笑を浮かべた。

「野宿ならしたことがあります! あっ、でも…廃墟ですけど元は家だった建物だったから、野宿とは言わないのかもしれません。ですが、大丈夫です!」

 友達との思い出を語るように、グレイは何のためらいもなく自身の軽くはない経験を開示した。

「そう、か」

 エーベンホルツが少し声を詰まらせたのは、同情からではなく、その穏やかな微笑みが、クライデを――もう生きていない親友を、思い起こさせたからだった。

 グレイは「おやすみなさい」と礼儀正しくエーベンホルツに挨拶をして頭を下げると、他のオペレーターたちの輪に入っていった。

 エーベンホルツは小型のトラクターと芝刈り機の間に一人寝転べるほどの隙間を見つけると、そこに横たわった。木の床が背中全体に当たる。早く起き上がれと急かすような自分を拒絶する感触に、クライデの住んでいた部屋の床を思い出す。クライデが眠っていたという床も、同じように硬かった。目を閉じる。夜の闇のなかに自分の意識が融けていく。

『エーベンホルツ』

 自分を呼ぶ声がする。

 気づけば、白い髪をした、自分と同じキャプリニーがすぐ横に立っていた。彼はにっこりと優しく笑うと目の前で横たわる怪我人の腕に丁寧な手つきで包帯を巻いた。

『来てくれてありがとう』

 彼はかつてエーベンホルツに向けたものと同じ、春の日差しに似た暖かい笑みを浮かべて、、こちらを見た。

 ――嗚呼、これは夢だ。

 硬い床の上で眠った自分が、見ている夢。

 自分の見ている夢ながら、なんて残酷なのだろうとエーベンホルツは思った。

 そうはっきりと自覚しても、夢は覚める気配がなかった。目覚めることを体が拒否しているのか、あるいは目覚めたくないと心で思っているのか。

「クライデ」

 エーベンホルツが彼の名を呼ぶと、笑みの種類を苦笑に変えて首を傾けた。さらりと彼の白い髪が流れて、顔に落ちた陰影を変化させる。

『ロドスの任務中は、コードネームで呼ぶっていう約束だろう』

 彼が言う。

 エーベンホルツは、そうだったな、と口を開いて、そして、そのまま停止した。言うべき言葉が、出てこない。彼のコードネームを呼ぶことができない。彼は果たして、自分に何という名をつけたのだったか。自分は本名をそのままコードネームにしたが、彼は何にしたのだったか。

 ぐるぐると、思考が回る。頭の後ろの方で、「どれだけ考えても無駄なのに」と、もう一人の自分が囁いている。

 違う。

 きっと自分は、彼のコードネームを知っているはずなんだ。だって、一緒にロドスへやってきた。無事とは決して言えないけれど、運命に打ち勝って、泣き笑いをしながらロドス本艦へ足を踏み入れたのだ。そこで高度な技術をもつ医療オペレーターたちの努力のおかげで、クライデも自分も、あの忌まわしい音に悩まされず済むようになった。クライデはそのことにひどく感銘を受けて、医療オペレーターとして多くの人を救うのだと一念発起し、ハイビスカスをはじめとした医療オペレーターたちの先輩たちと日々を過ごしている。ガヴィルという名のやや荒っぽいオペレーターの考えることはわからないことがあると苦笑していたが、可愛がられていることは間違いない。ロドスでは時折、クライデと二人でささやかなコンサートを開いて、ロドスに治療に来ている子どもたちに聞かせているのだ。クライデはそれをとても楽しみにしていて、コンサートの練習にも余念がない。医療オペレーターの仕事は忙しいけれど、その合間に彼はきちんと一定量の練習をこなし、チェロの腕はますますあがっていた。そのうち、ツェルニーも大人しく首を垂れる日が来るだろうと笑いあう。ロドスが少しずつ世界をよくしていくのに、クライデと自分はささやかながら末端で関与しているのだ。そして、珍しく二人の休みがかち合った日、アルコールで少し理性を飛ばし、普段なら恥ずかしくて言えないようなことを言い合う。なんだかんだ、悪い人生じゃなかったと。かつて自分を酒浸りにしようと企んでいた奴らの顔はすっかり思い出せなくなっている。クライデはアルコールを飲みなれておらず、多少舌っ足らずな口調で、医療オペレーターの先輩たちのすごいところを、聞いているこちらが恥ずかしいほどに語りだす。それを、自分は肩をすくめて聞いている。

 ――そういう、日常があったじゃないか。

 驚くほど鮮明に、エーベンホルツはクライデと共にロドスでオペレーターとして過ごす日々を思い描くことができた。思い描く光景が色鮮やかであればあるほど、エーベンホルツの頭のなかは冷え冷えとしていった。

 嗚呼、これは夢なのだ。

 今、頭のなかにあるこの光景は、現実には存在しないのだ。

『どうしたの?』

 そばで固まったまま微動だにしないエーベンホルツを心配して、クライデが顔を覗き込んでくる。何でもない、だからどうか、そのままそこにいてくれ。そう言おうとするが、声が出なかった。夢の終わりが近づいている。エーベンホルツは、異常なほどの焦燥に駆られた。彼のオペレーターとしての名前を思い出せれば、きっと何かが変わる。そんな妄執が、頭のなかをじわじわと支配していく。必死で、エーベンホルツは彼のオペレーターとしての名前を思い出そうとした。きっと、きっと思い出せるはずなんだ。

 そうだ、彼に聞いてしまえばいい。

「なあ、クライデ。お前のオペレーター名だったが、果たして何だったかな?」

 エーベンホルツからの唐突な問いかけに、彼は一瞬、藤色の目を見開くと、すぐに気恥ずかしそうにはにかんだ。

『忘れちゃったの、エーベンホルツ。二人で一緒につけたじゃないか』

 そうだったな、とエーベンホルツは小さく呟いて、彼の答えを待った。

『ほら、』

 しかし。

『――だよ』

 彼が口にした単語は、そこだけ握りつぶされたかのごとく、ぐちゃりとした音の塊になって、聞き取ることができなかった。

 ――嗚呼、これは夢なのだ。

 エーベンホルツが、いつかのクライデと同じように硬い木の床の上で眠りながら見ている、夢なのだ。

 クライデがもう一度、何かを呟いた。

 嗚呼、そうか。

 そうだったな。

「クライデ。お前のコードネームは――」

  目が覚める。

 電球が割れた照明のついた天井が、視界に入る。グレイのアーツユニットの光ではない、自然光が部屋をぼんやりと明るくしている。上半身を起こすと、窓から日光が差し込んでいた。

 慣れない場所で眠ったが、途中で覚醒することなくずっと眠っていたようだ。

 肩甲骨周辺や肘がじんじんと痛む。肩を回すとばきばきと骨が音をたてた。

 ――嗚呼、クライデが目覚めたときも、こんな風に体を痛めていたのだろうか。

 何もかけずに眠ったせいか、指先はいつもより冷たい。指同士をこすりあわせて温めていると、ぴょこぴょことすばしっこい人影が近づいてきた。

「おはようございます」

 グレイが人懐っこい笑みを浮かべてエーベンホルツのそばにやってくる。

「今日は晴れてよかったです。この天気なら、二時間もあれば目的地にたどり着きそうですね」

「それはよかった。もうすぐ出発か?」

「はい、缶詰ですが朝食をとったら出発しましょうと、リーダーが言っていました」

「わかった。準備しよう」

 エーベンホルツが立ち上がると、グレイは数歩下がって、それからエーベンホルツの顔を覗き込んだ。

「あの、よく眠れましたか? あ、えっと、こんな場所じゃよくは眠れませんよね……ええと、問題なく眠れましたか?」

 まだ少年と形容するにふさわしいグレイにすら、ある程度の気遣いを要求する自分のとっつきにくさというのは、いかがなものなのだろうか。エーベンホルツは多少なりとも、己の態度を反省した。ひとまず眉根を下げてこちらを窺っているグレイに口角を上げて答える。

「夢を見られるくらいには、よく眠ったよ」

 夢のなかで思いついた、エーベンホルツのコードネームには、それからいくら考えても、たどり着くことができなかった。

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