WEB再録「旅の訪れ」

休符2

 ストロッロ伯爵とツェルニーの話ですか。本当に、話してしまって構いませんか? 話したことで、私が不利になることはありませんか? 私はそのへんの弱小貴族ですから、少しの醜聞でも身の破滅に繋がるのです。大丈夫? 本当に? そうですか。それでしたら、お話しします。

 ――ドアの開く音が聞こえて、皆の視線が部屋の入口へと集まったとき、私は即座に「しまった」と思いました。私が腰を上げるのと、一番近くにいたスタッフが目をそらすのはほぼ同時でした。
 部屋に入ってきたストロッロ伯爵は、すぐにミキサーのそばにいるツェルニーを発見していました。ループス特有の先のとがった耳が、ぴくりと痙攣して前を向きました。私はこの予想外の邂逅をどのように処理すればいいのか、必死に考えておりました。ゲルトルーデ・ストロッロ伯爵は音楽家・ツェルニーのパトロンであることに違いはありませんが、その仲は良好といえず、ここ数年はまともに顔を合わせていなかったのです。同じ会場にいても、違う人々と話をして、挨拶もしませんでした。
 その日、ツェルニーがリターニア建国記念式典のために頼まれた曲のレコーディングがこのスタジオであることを、ストロッロ伯爵はわかっていましたが、レコーディングが始まっても姿を見せていませんでした。ですが今、こうしてレコーディングスタジオにいるツェルニーと出会ってしまったのは、レコーディングがとても押しているせいでありました。想定の二倍の時間がかかっていたのです。ですから、ストロッロ伯爵としては、もうツェルニーは帰ったものと思って、この部屋に入ってきたのでしょう。
 ぴりぴりとひりつく空気のなかで、私はなんとかもつれる手足を動かして、ストロッロ伯爵のそばに行きました。今日、私はストロッロ伯爵の代理人としてツェルニーについていたのですが、その後、ストロッロ伯爵へレコーディングの様子などをお伝えすることになっていたのです。私が報告に来ないものだから、ストロッロ伯爵は私を探しに来たのでしょう。つまりは私のミスでした。ツェルニーのレコーディングがこのように難航することは珍しく、ストロッロ伯爵はパトロンとして彼の音楽家としての仕事ぶりをいたく信頼していましたから、このような事態になっているとは思わなかったのでしょう。
「伯爵。申し訳ありません。ええと、そう、まだレコーディングが終わっていないのです。正確にいえば、レコーディングは終わったのですが、そのミキシングが終わっておらず」
 オーケストラによるレコーディングはすでに終えておりました。しかし、最終調整の段階で、ツェルニーはどうもしっくりこないと悩みはじめ、バイオリンの音を調節したり、ホルンの音を調節したり、四苦八苦されていたのです。
「ちょうどいい」
 凛とした声が、張りつめた空気を破りました。それはツェルニーの声でした。ずらりと並ぶミキサーの機械の前に座り、難しそうに腕を組んでいた彼は、顔をあげて腕をほどくと、おもむろに立ち上がりました。
「あなたの意見を聞きましょう」
 なんてことを言うんだ、と私は思いました。顔こそ合わせないものの、ドア越しや私を介して二人は会話をなさっていました。その内容は、皮肉と挑発がちょくちょく顔を出すもので、聞かされているこちらが疲弊するようなものでした。この場でそんな会話がなされれば、ストロッロ伯爵は気分を害し、私は責任を取らされるでしょう。私は保身のために慌ててツェルニーに近寄ろうとしましたが、それよりも、ツェルニーが音源の再生ボタンを押す方が早かったのです。
 ツェルニーが作り、リターニアで随一のオーケストラが奏でるシンフォニーが、部屋のなかに響きました。重厚な、それでいて清楚な旋律に、私は動きを止めました。私のようなものでも、その曲のすばらしさは理解できました。しかし、ツェルニーが何に引っかかっているのか、私にはまったくわかりませんでした。
 ストロッロ伯爵は静かに目を閉じると、しばらくの間、部屋中に満ちる音楽に耳を傾けておりました。ツェルニーは眉間にしわを寄せて、目の前にあるはずの透明な蜘蛛の糸を見つけようとするかのごとく、瞳を細めて前を睨みつけていました。しばらくして、ツェルニーが音源を止めました。
「ここです。今のハーモニーが、どうもしっくりこない。楽譜通りではあるのです。しかし、音が澄んでいない」
 ツェルニーはどかりと椅子に腰かけると、大げさに肩を竦めてストロッロ伯爵へ顔を向け、どうだと言わんばかりに顎をあげました。私はそこでようやく、おそるおそるツェルニーに近づきました。ですが今度は、私がツェルニーを何とかする前に、ストロッロ伯爵が口を開きました。
「そうね」
 ストロッロ伯爵は数秒目を閉じて思案すると、そのまま口を開きました。
「木管楽器の音をもう少しクリアにしたらいかがかしら。それから、バイオリンのフェードアウトを少しだけ、遅めに」
 ツェルニーはゲルトルーデの言葉を受けてミキサーに手を伸ばすと、スイッチをいくつか上下させて、もう一度再生ボタンを押しました。ツェルニーが問題にしている旋律が、再度部屋を満たしました。ですが――ええ、不思議なことに。それは良くなっていたのです。少しだけずれていたパズルのピースがぴたりとはまって、継ぎ目が見えなくなるように、はじめから最後までスムースに、音楽が一つのものとして、完成したのです。
「ああ、素晴らしいですね。これです。私の求めていた音は、これですよ」
 ツェルニーは上ずった声を上げると、すぐに最終版とするためにいくつかの作業へとりかかりました。
 ストロッロ伯爵に背中を向けたツェルニーの顔が、ミキサーの前にあるガラスに写っておりました。その口元には、はにかんだ微笑が浮かんでおりました。それは、良き理解者を得たときの、心から満足を得たときの、心がくすぐられるような微笑でした。そしてその微笑のなかには、驚きというものは微塵も含まれていなかったのです。つまりツェルニーは、ストロッロ伯爵がこのように適切な助言をしてくれることを、ある程度予測していた。私には、そう思えました。
 ――あんなにも、辛辣な言葉のやり取りをしていたのに、ストロッロ伯爵とツェルニーは、やはり良きパートナーであったのです。ストロッロ伯爵は、ツェルニーの音楽をよく、理解していました。
 ……ですが、結局のところ、こうなってしまったのですから、お二人は良きパートナーではなかったのでしょう。きっと、あれは私の見間違いで、ツェルニーはあのとき、笑ってなどいなかったのかもしれません。

 あなたはどう思われますか?

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