WEB再録「旅の訪れ」

ビバーチェ

 ――リターニア、ヴィセハイム・クリフィーパティオ区のの某高級レストランにて。
 ――ワイン色の分厚いカーテンに仕切られた、奥の特別席。

「そうそう。忘れていたわ。良い知らせがあるの」

「〝あなた〟にとっての〝良い知らせ〟でしょう」

 ゲルトルーデの言葉に、ツェルニーがほとんど間を置かずにそう返すと、ゲルトルーデの指先が僅かに震えてナイフの先と皿がぶつかった。カチン、と耳に障る硬い音が響く。その顔に一瞬怯えが走った。それはリターニアの貴族としての「正しい振る舞い」を知っている彼女には珍しい表情だった。彼女の背後にある、ワイン色のビロードでできたカーテンや装飾の細かな白い柱が一層、その怯えた表情を舞台上を照らすスポットライトのように鮮やかに映し出していた。

 貴族の家に生まれた彼女が受けてきた躾は、熾烈なものだったと聞いている。その成果か、彼女の振る舞いは一つ一つが洗練された、上流階級の人間として完璧なものだった。

 今のミスが、ツェルニーの返答が予想外ゆえのことだとしたら、ゲルトルーデの言う「良い知らせ」とやらは、それは彼女ではなく、ツェルニーにとって喜ばしいことなのだろう。二人の間に交わされる会話は決して健全なものではなく、これくらいの皮肉であれば、動揺するはずのものではない。考えてみれば、そのような間柄は是正するべきであるのだが、ツェルニーにそうする理由は今のところなかった。

 ――素直に聞くべきか。

 彼女が自分を他の人の持っていない特別な手札として扱っていることは理解している。だが同時に、彼女がこちらの新曲を出版社に通して流通させ、演奏を録音してラジオなどでリターニア全土にこの手で生み出した旋律を届けてくれているのも確かだ。そこにはある程度の素直な善意も含まれていることを、さすがにツェルニーも感じ取っていた。ツェルニーの正確を鑑みれば、手札として持って行くには多少コストがかかりすぎる。

 だからこうして、本来であれば感染者は入れないはずのクリフィーパティオ区のレストランの一角を仕切って、特別に食事をすることもできているのだ。こなれた所作の、白髪の店員が持ってくる料理はどれも非常に美味で複雑な味付けを施されており、感染者であれば本来口にできないものであることはすぐわかった。

 ツェルニーはカトラリーを置くと、ワイングラスを手に取って、一口分飲み干した。ワイングラスが再度テーブルに置かれるのと同時に、目の前のループスは再び口を開いた。

「……失礼。勿論私にも『利益よいこと』はありますけれど、あなたにとっても嬉しいことだと思いますわ」

 ツェルニーは何も答えず、ゲルトルーデに話の続きを促した。

「つまりね、ツェルニー。リターニア内でのコンサートツアーの打診がありました。ドデカフォニーやビーボ、トローペなど、六カ所の都市を巡るツアーですのよ」

「コンサートツアー……ですか」

 想定外の提案に、ツェルニーは僅かに目を見開いた。その反応に、ゲルトルーデが満足げな笑みを浮かべる。本来予想していたのは、この反応なのだろう。

 リターニアのなかでツェルニーの名が作曲家・演奏家として知られてきたといえど、ツェルニーが「感染者」であるという前提がまずはじめに存在する。感謝であり、演奏家。感染者であり、作曲家。貴族たちと同じような行動が許されている間、この体は常に「例外」であり続ける。ツェルニーが今、あの重厚なカーテンを開けて店のなかに出て行こうものなら、客として来ている幾人かの貴族は悲鳴をあげて入り口へ駆け出し、綺麗な衣装を汚してでも帰るだろう。

 そして、行動が制限されている身として、当然、演奏の機会も限られてきた。

 時折――ゲルトルーデの計らいでコンサート自体は行うことができた。観客はリターニアの貴族がほとんどで、ツェルニーとしては気が進まないものだったが。貴族に向けたコンサートが完全なる無駄というわけではない。貴族たちが自らの権力誇示や大切な客の接待の一環として国外の音楽家や実業家をコンサートに連れてくることがあった。彼らは、ツェルニーの演奏に目を輝かせて純粋な視線を向ける。

 貴族たちの見世物を見るような視線には侮蔑しか感じなかったが、そのようなリターニア外の人々に自分の音楽が届くことは嬉しかった。そのなかの数人かは、コンサートのあとにツェルニーが引っ込んだ楽屋へとやってきて、自分の国の音楽ジャンルについて語ることもあった。自分の知らぬルーツをもつ音楽の話を聴くことは非常に刺激的で楽しいものだ。そこで手に入れた情報からインスピレーションを得た曲もいくつかある。

 だが――一般のリターニアの国民たちへ自分の演奏を見せることができる――それはとても、魅力的な話であった。

「それはあなたが主催のものではないということですか?」

「もちろん私が間に入りますけれど、主催は音楽学校ですわ」

 ゲルトルートがあげたのは、リターニアの各地に分校をもっている、大手の音楽学校だった。一番新しい分校の校歌については、ツェルニーが提供したばかりだ。生徒たちの誰もが覚えやすく、歌いやすいものを――技巧を抑え、親しみやすさを優先した作曲というのは、普段と勝手が違い、それはそれで楽しいものだったので、最近の仕事のなかでも特に印象に残っている。

「そう、ですか……」

 その音楽学校が主催であれば、貴族たちのくだらない暇潰しのコンサートにはならなくて済みそうか。

「進めていただいて構いませんよ」

 ツェルニーは食事を再開した。ほどよい温度に焼かれていたフィレ肉は、会話の間にすっかり冷めてしまっていた。

 そう、と目の前のゲルトルーデが小さく頷く。その顔には明らかな安堵が浮かんでいた。自分の思う通りに事が運んでよかったというものではなく、もっと澄んだ、透明なもの。エゴの混じっていない、こちらを気遣った安堵。

 彼女は、自分にコンサートツアーをさせたかったのだろうか、とツェルニーは考えた。

 考えて、それ以上の思考は止める。指揮棒を振り上げてオーケストラの演奏を終わらせるように。

「……。今回のコンサートツアーが成功すれば、国外でのツアーの話もあるかもしれないわね」

 ゲルトルーデはミス一つない完璧な所作でフィレ肉を口に運んだ。ツェルニーのものと同じように冷めているはずなのに、その表情は満足げだ。

「そんなことが許されるでしょうか」

 感染者であることの重さを、ツェルニーはよく理解させられている。

「わからないでしょう。あの音楽学校、来年にはヴィクトリア分校を作るそうよ。それに、リターニアの学校に音楽を学ぶためわざわざやってくる留学生が、後を絶たないじゃない。リターニアの音楽はテラのいたるところで聞かれているのよ」

 ウルサス、ヴィクトリア、カジミエージュ、それから炎国――本で読んだことはあるが、足を踏み入れたことのないテラの国々。

 同じ空のもとに、あるはずの国々。

 音の響きはどうなのだろう。空気はリターニアより乾いているのだろうか。自然に満ちる音はどのような種類のものなのだろう。

 ふ、と空想に耽溺するツェルニーの口元に笑みが浮かぶ。ぼんやりと遠くの地へ意識を向けるツェルニーは気付くことがなかったが、そのとき向かいに座るゲルトルーデの唇も、まったく同じように歪んでいた。

「――テラの各地を巡るコンサートツアーが組まれたら、私もついていって、観光しようかしら」

 旅をするの、とゲルトルーデは歌うように言った。美しく、オペラのソロのように。

「それは――」

 想像するだけ無駄ではないのか、と続けようとして、ツェルニーは一度言葉を飲み込んだ。そして、違う言葉をそっと並べる。

「――いいですね」

 ツェルニーが肯定すると、ゲルトルーデはテーブルに肘をついて、宙を見つめた。貴族らしからぬマナーの悪いふるまいであったが、ツェルニーには関係のないことだった。

「私は、クルビアの荒野に行ってみたいわ。岩とほんの少しの草木、そして強い風が吹いている……ずっと、ずっとずっと、その光景が広がっているんですってね」

 風の音が、耳の奥に聞こえる。例えるならコントラバスの音色。唸るような、荒々しい音。けれど不快ではない。髪は風に舞いあげられてばさばさと暴れ、頬に叩きつける。けれど目の前に広がる、どこまで続く荒野の景色に心を奪われ、髪など邪魔にならない。

 そんな想像を――脳裏に描いた。

「その、荒野のど真ん中を、赤いスポーツカーに乗って、スピードをとにかく出して、突っ切っていくの」

 ずっとずっと遠くまで。

 私が行きたいところまで。

 ゲルトルーデは、さらに、歌うように語った。この現実が、舞台のワンシーンであるかのごとく、過剰なほどの、ノスタルジーを込めて。

「後部座席に食料をたくさん詰んで、遠くまで行くのよ。誰も私のことを知らない、いいえ、気にしないようなところまで――ええ、誰もいないところまで」

 それから。

 夜になったら、満点の星空の下でゆっくり眠るの。

 ゲルトルーデは、テーブルに肘をついた右手の上に顎をのせて、うっとりと、赤いカーテンを眺めた。きっとそこには、荒野が見えているのだろう。

「……」

 荒野は夜になるとひどく冷えるという。だから、ゲルトルーデの口にする欲望は現実的ではないのかもしれない。

 しかしそれは――とてもいい「夢」のように思えた。

「あなたは何かないのかしら? ツェルニー」

「そうですね……」

 リターニアの外に出る――喜ばしいことだが、改めて考えてみると、自分事として捉えるのはひどく難しい。やりたいことを実現可能性なしに口にするのは簡単だ。しかし、それをいざ、自分の人生に繋がる形で、この体をもってどうしたいかと言われると、言葉に詰まる。

 つまりは――自分はまだまだ、狭い世界で生きてきたのかもしれない。世界が広がれば、その分、自分が広がり、そして作ることのできる音楽も広がる。ツェルニーは胸の内に、花弁が開くような希望の広がりを感じた。ああ、自分にはまだ知らぬ音楽があるのだ。知らぬ音楽を、手に入れることができるのだ。

 希望。

「私は――炎国へ、行ってみたいものです」

 そう、これは希望だ。

「あら、私はてっきり、シラクザーノを希望するものと思っていましたわ。あそこで上映されているオペラに、あなたは曲を提供していたでしょう。一度は現地で見たいものだと、以前、口にしていましたけれど」

「ええ、確かにそう言いましたが――炎国の一地方には、守り神への感謝と祈りを捧げる演舞があるそうです。それは剣や盾など、武具を楽器として用いながら、舞と演奏を同時に行うとか……それがどのようなリズムなのか、興味があります」

 自分の内から生じる感情ではなく、完全に外部のもののために作られる音楽。旋律を奏でるためでなく、舞のために打ち鳴らされる楽器。ツェルニーのなかの「音楽」からは出てこないものだ。

「……あなたが望むことは、すべて音楽に繋がるのね」

 彼女の言葉に、ツェルニーは首をかしげた。当然だろう。自分は音楽家なのだ。

「ふふ。いいことよ。――クルビアも炎国も、テラの各地を旅しましょう。その土地ごとに音楽があるでしょう。それらを聞いて、あなたは新曲をつくる。私はそれを届ける。ええ、それがいいわ」

 ゲルトルーデは続けて、シラクザーノに行きたいのは私の方かもしれないわ、と言って、シラクザーノの料理に関して語り始めた。彼女が幼少の頃屋敷に出入りしていた料理人が、シラクザーノ出身だったこと、三回だけ、シラクザーノの家庭料理を作ってくれたこと。

 それから二人は、途方もない旅の話をした。本や映像で見た知らない国の文化を、人々を想像し、何を食べるのか、何を見るのか、何を聴くのか。目の前の料理を食べることを忘れて――いや、時折、口に運んで――話し続けた。

 話が尽きることはなかった。

 二人だけの空間を仕切っていた赤いカーテンが開けられるまで。

 カーテンが開けられると同時に、この空間にあった夢想はすべて霧が晴れるように消えていった。残ったのは表情をなくした二人と、飲みかけのワイン、そしてソースだけ残った皿のみだ。

「ストロッロ伯爵。使いの者が来ておりますが」

 二人に料理を運んできてくれていた、この店の従業員が恭しく頭を下げて、端的に用件を述べる。白髪の従業員からの言葉を理解したゲルトルーデは唇をナプキンで右から左へと拭きとると、無言で立ち上がり、ツェルニーに視線を向けることなくテーブルから離れていった。ゲルトルーデが座っていた場所にはワインの跡が滲んだナプキンが残されていた。カーテンが再び閉じられる。しんとした静寂が、場を支配する。彼女がいなくなると、途端に自分はこの場で異物なのだという感覚が強くなった。感染者であるツェルニーは、本来この店に居てよい存在ではないのだ。

 そのまま、ゲルトルーデはテーブルに戻ることはなかった。しばらくして先ほどと同じ白髪の従業員がカーテンをめくってやってきて、「ストロッロ伯爵は先にお帰りになりました。支払いは済ませているので、好きな時間へ帰ってよいということです」と告げた。ツェルニーはワインボトルから一杯分だけ残っていた液体を自身のグラスに注ぐと、風情なく一気に飲み干して、立ち上がった。

「それでは私も、もう帰ります。美味しい食事をありがとうございました」

 従業員はゲルトルーデにしたものと同じように恭しく頭を下げたが――ツェルニーをゲルトルーデを連れて行ったのとは逆のカーテンから出るよう促した。口元に浮かぶ笑みは、変わることがない。それが完璧に作られたものであることを、ツェルニーはようやく勘づいた。その裏で何を思っているか、想像することはしなかった。

 そして彼は、従業員口からツェルニーを見送った。

 店の外に出ると、薄い雲の切れ間に、街灯の光に霞みつつも星がいくつか輝いていた。

 ふわりと、ぬるい風が頬を撫でる。嗚呼、自分は、リターニアの風しか知らない。

 リターニアの情景を描いた「青空の歌」という詩を思い出した。今のツェルニーにも、そして恐らくゲルトルーデにも、あの詩にあるように「心に希望が満ちる」風景など、この国に見出すことはできないのだろう。

 今日、彼女と夢想し、語り合ったさまざまな風景は、それに合致しているだろうか。いつか、本当に、心に希望が満ちる風景を、このテラのどこかで見ることができればいいと、ツェルニーは目を閉じて密かに祈った。

 祈りを終えて、彼は歩き出す。

(彼はその祈りを旋律に載せることは終ぞなかった。)

(ビバーチェ:生き生きと、速く)

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