休符1
まさか今日び伯爵のことでアタシを尋ねてくる方がいるとは思いませんで――ええ、そうです。アタシは、かつて、ゲルトルーデ・ストロッロ伯爵のお屋敷で女中をしておりました。よくまあ、こんな片田舎の定食屋まで、わざわざ。
はい。ヴィセハイムの領主様が変わってしまったことは、もちろん存じております。けれどアタシのなかでヴィセハイムを治めていたのはストロッロ家で、何よりゲルトルーデ様なのです。もうアタシは貴族様とは何も関係がないのですから、それくらいの自由は許されるでしょう?
アタシが解雇されたのは、ゲルトルーデ様が亡くなったからです。ですからもう何年経ちますか? ええ、そう、そうでした。それくらい経ちますね。ああ、時は早いものだ。もう皆、あの人のことなど、思い出すことはないでしょう。
けどね、アタシは今でも時々、思い出しますよ。アフターグロー区の事件のときは、そりゃもうひどい言われようでしたけれど、ゲルトルーデ様をすぐそばで直接見ていたアタシには、あれが嘘だということがわかります。ゲルトルーデ様は、確かに苛烈なお方でしたが――でも、仕方がないでしょう。貴族様なんですから。貴族様にとっては当たり前なのかもしれませんけど、アタシはゲルトルーデ様以外の貴族様にお仕えしたことはありませんからね、他の方はよく知らない。昔っから厳しい躾を受けて、誰が味方かもわからない状態でずっと生きていくなんて、ひどく不憫ではありませんか。苛烈になるのも致し方のないことでしょう。それに、あの方のお父上も、兄上も、ひどい人でした。何も知らないゲルトルーデ様を、〝そういうつもり″の貴族の男のもとへ、遣わせたりして……。度々、そういう、穢らわしいことがありました。ゲルトルーデ様はそういうとき、お部屋で一人泣いていました。読んでいた恋愛小説を壁に叩きつけて、「書いてあることは全部嘘!」と叫んでおられました。アタシは、何も聞かなかったことにして、洗濯が終わった綺麗な衣装をクローゼットにしまっておりました。
直接言われたことはありませんでしたが、アタシたち女中とゲルトルーデ様の間の、暗黙のルールになっていました。でも、アタシだって女です。ゲルトルーデ様の悔しさや悲しさは、そこらの男どもよりは理解できます。肉親からそういう風に仕向けられ、そういう風に扱われ……だからね、ここだけの話ですけど、今だからこそ言いますけど、ゲルトルーデ様の兄上が死んで、ゲルトルーデ様が爵位を継いだとき、アタシはざまあみろと思ったんですよ。あんなにお美しい方から、愛とか恋とか、そういうものを奪った奴らに勝って、ヴィセハイムを治めるほどの貴族様になったゲルトルーデ様が、アタシは誇らしかった。自分のことじゃないのにねぇ。おかしいけどさ。
結局。ゲルトルーデは結婚なさらなかったけれど、まあ、今更だったろうしねえ。それどころじゃなかったというのもあるしねぇ。
大好きだった恋愛小説も、いつの間にかすっかり読まなくなってしまって。本当は、結婚にも憧れていたのかもしれないけど、仕方ない。仕方ないのよね。
どう思っていたかなんて、アタシにはわからない。
……。
ああ。
でも――そう。
思い出した。
思い出したよ。
あの方は、一度だけ、アタシの前で恋の話をしたんだよ。
そんなに驚かなくてもいいでしょうに。
――でも、好きな人ができたとか、そういう話じゃないんだ。
いつだったか、正確には忘れちゃったけどね、もう、爵位は持ったあとだと思いますよ。忙しい時期だったから。アタシがあくせく働いている横で、上機嫌にあの方は言ったんですよ。
ええと、そう、確かね、『恋をする相手は人でなくてもいいわよね』と、言ったんです。
何を言いだすのかと思いましたが、ゲルトルーデ様は上機嫌なまま、続けました。
『音楽にも恋はできるのよね』、と。
音楽にならこんな私でも、恋ができるかもしれないわね、と。
当時、ゲルトルーデ様はある作曲家の音楽をよく聴いていらっしゃいました。そして、その作曲家の楽曲を、自慢のハープでよく演奏していらっしゃいました。元々はピアノのために作られた曲も、ご自身でアレンジをしたりして……。そのときのゲルトルーデ様は、ええ、普通の、普通のどこにでもいそうな、音楽好きの、一人のループスだったんですよ。
その作曲家は誰だったかって?
ええと………。
……いえ、言うのはよしましょうよ。今更ですけどね。さすがにアタシも、そこまで失礼じゃありませんよ。それはきっと、言わないのがいいんですよ。死ぬまで言うつもりはありません。バレバレですか。まあ……でも、ね、他人が口にするのは違うと思いますから。
おや。
おやまあ。
あの……つかぬことをお伺いしますが。どこかで見たことがあるような気がするんです。あなたのことを。ええと、どこででしたっけねぇ……ヴィセハイムの……あー、あ、そう。そうだ。アフターグロー区にあるコーヒーのおいしい喫茶店。あそこの店長さんじゃあないですか? あのお店のコーヒー、じつにおいしくってね。感染者地区だけど、使用人たちの間じゃこっそり買いに行く人も多かったのよ。ねえ、そうじゃない。いやねぇ、曖昧に笑って。そうなんでしょう。
あなたは……アフターグロー区の、喫茶店の店長ではないですか?

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