スタッカート
短く息を吸う。正確なリズムで三回ドアをノックする。分厚いドアの向こうから、すぐに「どうぞ」と入室を許可する返答があった。
ツェルニーがドアを開けると、きらきらとまばゆい光を照り返すシャンデリアやカラフルな噴水のように花が生けられた花瓶が目に入った。色の数だけでも、この部屋が一定水準以上の権力と資本をもつ上流階級のものであることがわかる。華美な装飾の部屋のなかで、何かが動く。ツェルニーは反射的にそちらへ顔を向けた。装飾の一部かと思っていたそれは、部屋の主のゲルトルーデだった。彼女はいつもと異なる装いで、化粧台の鏡面に顔を近づけていた。ふぁさりと、ループスの毛量が多い尻尾が揺れる。
彼女は普段、きっちりしたスーツを着ている。当然、部屋のなかにいるゲルトルーデも、その姿だろうと考えていたが――今、目の前にいるゲルトルーデは、艶やかな赤いドレスを身に纏っていた。見慣れぬ姿に、ツェルニーは何を口にすればいいのかわからなくなる。
「出直しましょうか?」
かろうじて、ツェルニーは露わになった背中から目をそらして尋ねた。
「いいえ、それには及びませんわ。今日はこれから晩餐会なの。気が進みませんけど、行かなければ面倒なことになるのよ。それに、もう準備はおしまいだから」
化粧台の前に置かれた椅子の背にかかった繊細な模様のレースケープを羽織り、ゲルトルーデは化粧台から全身を写せる鏡の前へ移動し、数度、自分の体の具合を確かめた。
「ごめんなさいね。終わったわ」
そう言うゲルトルーデは、装いこそ違うが、油断のならない完璧に作り上げられた空気は変わらなかった。
「……よくお似合いで」
ようやく、彼女に言うべき言葉を探し当てる。何年も資金提供をしてくれているスポンサーに対しての礼儀くらいは、ツェルニーも心得ているつもりだ。
「あら。そんな、心にも思っていないことは口にしなくていいのよ」
苦労して探り当てた礼儀を瞬時にして一蹴され、ツェルニーは眉間にしわを作った。
こちらが、純粋にそう思って口にしたという可能性もあるではないか。こうしてすべてを見透かしたように一つ上から返答してくるところが、ツェルニーには時折我慢ならなかった。優れた楽曲を作るうえでは、自分のなかにあるもの、感じたものと実直に向き合う必要がある。どのような状況から出てきたものであろうと、その感情を劣化させることなく旋律として表現することができれば、聴衆にも音を通して感情が伝わり、心を動かすことができるのだ。勿論、聴衆の心を動きやすくする作曲技術は存在するが、本質としてはいかに己と向き合うか、というのが作曲においては重要なファクターである。それは作曲のみならず、演奏に関してもそうだ。小手先の技術だけでなく、曲から感じるものを素直に指先で表現する。曲と己の会話を行う。技巧が稚拙であっても、素直な演奏は聞いている者を感動させることができる。
だから、人の感情を勝手に読み取った気になって、解釈されるのは音楽家としては不愉快なことであった。
まあ、しかし。
それはあくまで音楽家としてのプライドだ。ゲルトルーデは音楽家ではない。だからツェルニーは何も言い返さなかった。あえて反論しなかったのは、子供じみた抵抗の意思表示であったかもしれないが、ツェルニーはそこそこに満足した。
「別にいつもと同じ格好でも問題はないのですけど、ダンスタイムがあるらしいから、一応ね」
赤いドレスにあわせ、ピカピカに磨き上げた臙脂(えんじ)色のハイヒールをカツリと鳴らして、ゲルトルーデが胸を張る。
「きっと素晴らしいダンスを披露なさるのでしょうね」
ツェルニーが今度こそ皮肉をこめて言うと、ゲルトルーデはふんと唇の片方だけを器用に持ち上げて、手を差し出した。
「確認なさる?」
ふと、その光景に、ツェルニーの脳裏に蘇る記憶があった。
ああ、そうだ。
最大の理解者たる――彼女との思い出。
若くして人生を終えた彼女との思い出。
いつだったか。
彼女もこうして手を差し出してきたことがあった。
――ワルツのリズムを知るには、実際に踊ってみるのが一番よ。
そう言って、手を差し出してきたのだ。
彼女は美しい色のドレスではなく、普通の、どこにでも売っていそうなワンピースを着ていたけれど。きれいだな、と思って、ツェルニーは手を取ったのだ。ワルツのリズムを知りたいからと、自分に言い訳をしながら。
かつてあった幸福な時間に、ツェルニーはフ、と小さく笑みを浮かべた。
そして彼は、ゲルトルーデの手をとった。もう二度と再現することのできない、たった一度の大切な思い出に、少しの間浸りたかった。
ゲルトルーデは意外そうな顔をして、一瞬手を引きかけたが、すぐに指先の力を抜いた。きれいに口紅の引かれた唇の隙間から、ある貴族がつくったワルツのハミングが聞こえてくる。
あのとき、彼女が教えてくれた動きを思い出して、ゲルトルーデの背中へ、触れないように細心の注意を払いながら、腕を回す。ゲルトルーデが息を吸い込む。あのときの「彼女」と同じように。そして彼は、はじめの一歩を踏み出した。
ゲルトルーデも同時に足を踏み出し、つややかな髪がふわりと広がる。かつての、今となっては「過去」以外に言いようがない、思い出が重なる。あのときと曲は違うけれど、同じように彼女がメロディーを口ずさんでいた。
ああ、そうだ。こうやって。こんな風に。
ワルツを踊ったことがあった。
彼女と。
ワルツは踊ったことこそ、あのとき以来だが、曲としてはよく知っている。体に染みついたリズムが、滑らかに彼女に教えられたステップを呼び起こしていく。次は斜め後ろに。それからまた前に。
(三分間だけの、二人の舞踏会。)
(スタッカート:音を短く切って)

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