WEB再録「旅の訪れ」

パストラーレ

「ひどい顔ですね」

 唐突に顔に影が覆いかぶさり、私はびくりと体を震わせて顔を上げた。一拍遅れて、影と共に聞こえた声がツェルニーのものだと理解して、肩の力を抜く。

 いつの間にか、うとうとしてしまっていたみたいだ。さすがに二日ほとんど睡眠をとっていないので、体力の限界がきているのだろう。

 目の下の隈は濃くなるばかりだ。化粧でごまかしているけれど、さすがに隠しきれなくなってきた。医者にかかって薬も処方してもらっているのだが、服用したところで、全然良くなる気配はない。本当の限界がきたら気絶するように少しの間眠る。そんな生活が続いていた。

「女性にそんなことを言うなんて、デリカシーがないわね」

「……」

 ツェルニーは押し黙って、ゲルトルーデの顔を見つめた。容赦のない視線にさらされ、自然と顔を背けてしまう。彼の視線は、ひどく強い。リターニアで唯一無二の感染者作曲家として多くの見たくないものを見てきただろうに、彼の視線はどこまでもフラットだった。彼が見る景色はすべて彼の音楽のインスピレーションの礎でしかないのだ。だから、強いけれど跳ね返すことはない。ただ、澄んでいる。容赦なく、すべてを見ようと、すべてから糧を得ようと、こちらを見つめる。

 ゲルトルーデは、その視線をいつからか苦手に思うようになっていた。いや――受け止めきれなくなっていた、というのが正確だろう。彼の視線を避けていくうちに、彼と会う回数は少なくなっていった。

「眠れていないのですか?」

「ええ、とても忙しいものですから」

「仕事熱心ですね」

 冷ややかな声の皮肉に同じような温度の笑みを返して、ゲルトルーデはツェルニーが再度話し始めるのを待った。彼が何の用もなしにパトロンである自分を訪ねるとは思えない。

 案の定、ツェルニーは後ろに回した手に握っていた書類を、ばさりとゲルトルーデの近くにあるテーブルへ放った。

「何かしら?」

 ツェルニーは答えず、自分が放った書類に視線を落とした。

 手に取るとそこにはダークブルーのインクで書かれた、ツェルニーの神経質そうな字が並んでいた。ゲルトルーデの視線が書類の表面を下がっていくのに比例して、眉間にしわが深まっていく。

「これは、この前『お断り』した、ヘンリード氏の新曲によせた推薦文ではなくって?」

 ツェルニーへの作曲や講演、執筆の依頼はほとんどがパトロンであるゲルトルーデのもとへまず話がやってくる。

 ツェルニーがリターニア内で名声を手に入れるほどに、作曲以外の依頼も飛び込むようになっていた。そのうちの一つに、地方貴族の次男が作ったピアノ独奏曲集へ推薦文を書いてほしいというものがあった。ツェルニーのところへ話を持って行くと、そんなものを引き受けている暇はないと、取り付く島もなくつっかえされてしまったのだ。

「あなたにそんなものは書かないと言われて、私の方で謝罪と代わりの推薦者を紹介しておいたのですけれど?」

 すでに小さくはない労力を割いて、どうにか事態を収めた後だ。ツェルニーがそう言うことは予想できていたことであったが、だからといってゲルトルーデがそれなりに時間を要したことは変わらない。

「――あれは、権威だけで中身の伴わない楽曲に私が捧げる言葉はないということです。『春の陽光』と副題のついた曲は、特に良いものでした。貴族らしく品の良すぎる傾向はありますが、一方で、混ざりけのない春への喜びがよく表現できています」

 ツェルニーから受け取った書面にも、『春の陽光』がいかに優れたピアノソナタであるかということに多くの言葉が使われていた。

 相手がどうであろうと、そこにある音楽が絶賛すべきものであれば、言葉を惜しむことはない。それがツェルニーという音楽家だった。

「もう手遅れであれば、渡してもらわずとも構いません。受け取るべきであった報酬も不要です。ただ、私がこのピアノ独奏曲集に対して、そのような評価をもっているということを、どこかの機会にお伝えいただきたい」

「いえ、あの『ツェルニー』の評価ですもの。先方も喜ぶに違いありませんわ。私から、しっかりと推薦文としてお渡しさせていただきます」

 書類を引き寄せる。行った手回しのいくつかは無意味となるわけだが、仕方がない。貴重な感染者作曲家に優位をとれる今の状況を手放したくないというだけでなく、ゲルトルーデは純粋に、ツェルニーの言葉を推薦文を依頼してきた貴族へ届けてやりたいと考えていた。

「……ありがとうございます」

 礼の言葉を述べたツェルニーは、部屋のなかに視線をぐるりと一周させると、壁際に誰にも使われることなく、飾りとして置かれていたアップライトピアノに焦点を定めた。

「どうかなさったの?」

 アップライトピアノにつかつかと近寄り、ツェルニーはその輪郭を愛おしそうに撫でた。モノクルの奥の目が細められ、温かい視線がピアノに向けられる。彼が楽器に注ぐ視線は、とても優しい。

「御礼と言うには足りませんが」

 アップライトピアノの鍵盤の上に載せられていた布を取り外すと、いくつか鍵盤を押し込んで聞こえてきた音に彼は幾度か頷いた。弾いてはいないが、定期的に調律はしている。一体何をするのだろう。いや、ピアノに触ったのだから、演奏するに違いないのだが、御礼というものが何なのか、想像がつかなかった。

 そしてツェルニーは僅かに埃を被り始めていたピアノ前の椅子に座ると、ゲルトルーデへ穏やかな微笑を向けた。

「眠れていないのでしたら、子守歌を弾いて差し上げましょう」

 ポーンとピアノの一音が、部屋のなかに響く。それが合図のように、部屋に満ちていた空気が凪いでいく。家具たちの注意すら、ツェルニーの指先へ集められているように感じる。ゲルトルーデも逆らうことができずに、ツェルニーの発する音へ注意を向けた。ポーンともう一度ピアノの音が鳴る。それから一拍置いて、ゆるやかな旋律が、流れ始めた。

 和音は抑えめに、一音一音を丁寧に、奏でていく。彼の口元にはうっすらと微笑が浮かんでいた。一定のリズムで鳴らされる低音が、ゲルトルーデの意識を少しずつ底へと連れていく。張りつめていたまま解くことのできなくなっていた緊張が、揺らいでいく。目を閉じればあれもこれもと浮かんでくる切羽詰まった考えは、ツェルニーの旋律に押しのけられ、ただ、ゆるやかなリズムだけが、頭のなかに残る。

 十分ほど演奏を続け、ツェルニーが首を回してゲルトルーデの方へ視線を向けると、彼女はツェルニーが部屋に入ってきた時と同じように、テーブルに突っ伏して眠っていた。だが、先ほどとは異なり、険しい顔つきではなく、静かに眠るだけの表情だった。少しくらい、眠っていてもいいだろう。

 ツェルニーは眠る彼女のためだけのコンサートを、続けた。

(パストラーレ:牧歌風に、のどかに)

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