8:社会人としての新田と小泉
小泉の勤める登山用品メーカーに呼ばれた新田。
そういえば、別に駐車場まで送る必要はなかったのだと、会社から徒歩五分の駐車場に着く直前で――小泉光は気づいた。会社に来てもらった客を、会社の入口で頭を下げて送り出す。それは「普通」のことではないか。
客が大学時代からの知り合いだったとしても、今日の用事は会社が要望したものであるし、何なら小泉は勤務中だ。早く仕事に戻るのが、一番適切な行動だろう。
駐車場の全容が見えてくる。端にぽつんと一台だけ、黒のワンボックスカーが停まっていた。新田のものだ。来月車検を受けなければいけないと言っていた愛車。登山家を生業としている彼は荷物を多く運搬しなければならないこともあって、所有する車はずっとワンボックスカーだった。正直なところ、出会って当初は、すぐに慌ててしまう新田に車の運転ができるのかと心配していたが、さすがに慣れてしまったようで、事故を起こしたという話は、少なくともここ五年は聞いていない。
電子キーの信号が届くくらいまで近づいたところで、新田が足を止めた。自然と、小泉もその場に立ち止まる。
「こんなにもらっちゃってよかったのかなぁ」
新田が、小泉の勤める会社の名前――株式会社ワリスワークス――がプリントされた紙袋を胸の高さまで持ちあげて苦笑する。中には会社でつくっている登山用品の試供品や新商品がいくつか入っていた。
「気にしなくていいよ。『新田明朗』にうちの商品が使ってもらえるってだけで、うちみたいな小規模メーカーは十分リターンがあるし」
新田は小泉の言葉に、苦笑を照れた笑みに変えて、とっさに頭をかいた。
彼は――新田明朗は、長く未踏峰だったアジア中央部の山脈に、正式の登山隊として登頂に成功した4人のうちの1人だ。登山隊には日本人が3人含まれていたこともあって、日本では大きくニュースで取り上げられて、新田明朗は一時期いわゆる「時の人」となっていた。踏破から1年半経った今は多少、落ち着いてきているだろうが、登山に関わる人間たちのなかでは、新田明朗は偉大な登山家の1人に変わりはない。登山用品をつくっている株式会社ワリスワークスの社員たちも、当然新田明朗のことは知っていた。会社にきて試作品の使い心地を確かめてほしいという小泉経由の要望に訪れた新田は、社員たちにちやほやされて、まんざらでもなさそうだった。新田は昔から、自己肯定感が低かったから、こうして直接褒められるのが、常人よりさらに嬉しいのだろう、と小泉は思った。
「なんかごめんな。会社の人たち、サインとかほしがってさ」
ミーハーな態度を丸出しにした社員たちにも、新田は快く応えていた。もっとも、何の飾りもなく、ただ名前を書いただけのサインに、その社員は一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべていたが。新田は気づいていないようだった。
「ううん。でも、有名人みたいな扱いはやっぱり照れるよ」
新田がポケットから電子キーを取り出して、車のドアに向けて押す。ピ、と小さな音に続いて、カチッとロックが解除される音が聞こえた。
運転席のドアをあけた新田が、助手席の方へ紙袋を放り投げる。別に構いはしないが、扱いが雑だな、と小泉は考えた。だからといって何か言うわけでもない。考えただけだ。自分だったらそうしないだろうと。
「今日はありがとう。楽しいって言っていいのかわかんないけど……楽しいっていうより、有意義だった? 興味深かった? って、言えばいいのかな。とにかく、ありがとう」
「おう」
小泉はその場から動かないまま、答えた。
運転席に乗り込もうとするのをふとやめて、新田が振り返り、こちらを見る。それから彼は、常時の彼にふさわしくない、やたらと落ち着いた、大人びた微笑を浮かべた。
「小泉は、ずっと同じで――友達で、いてくれるね」
あの山に登る前から、今まで、ずっと同じだ。
ありがとう。
新田はそう言い残して、車に乗り込んだ。
小泉は動けないまま、ぼんやりと、新田がてきぱきと車を動かすためにシートベルトをしめたり、エンジンを入れたりするのを眺めていた。
そうして――そうして、何もわからないまま、何も考えないまま、目の前にある僅かな世界だけで生きている。
そんな彼のことが、小泉はずっと嫌いだった。
ずっと。
10年以上。
人類初の偉業を成し遂げた登山家が自分と古くからの知り合いだったとして、何も変わらないことがあるだろうか? ずっと山が好きで、登山家としてもやっていきたいし、山と関わっていたいからと登山用品メーカーに就職した男が、自分より後に登山をはじめた知り合いに何も思わないなんてことがあるだろうか? そしてそれを考えても表に出さないくらいには「大人」になっていることを、彼はわかっていないのだろうか?
新田が車を発進させる。彼は嬉しそうに笑って、小泉に手を振ったが、小泉はぺこりと頭を下げただけだった。
ずっと同じ。
それは間違っていないのだ。
俺はずっと、彼のことが嫌いだから。

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