4:大学4年生のときの2人
友達関係らしく、2人で映画を見に行ったら気まずくなったという話です。(新田の微妙なやばさが書きたかった)
前提情報
ここまでのSSで書けていませんが、新田の両親は幼い頃、新興宗教的なものにハマっており、それにうまくのれなかった新田は母親から「そんなことじゃ幸せになれない」と言われて、自己肯定感が下がったという設定があります。
その後、新田が14歳のときに家にきた新興宗教の人に強姦され、両親がさすがにそんなことをする人たちはおかしいと新興宗教への信仰を辞めました。(新田はその過去を、まあ親が得体の知れない信仰から足を洗うきっかけになったからまあいいか、という変に軽い気持ちで捉えているけれど、その話を聞いた小泉は真っ当に「大変だったな…」と思っています)(dis-communication)
――大学四年生のときの話だ。
★
スクリーン側から聞こえてくる台詞を理解するにつれて、小泉は自分のやらかしを悟った。しまった、と思った。咄嗟に隣に座る新田へと顔を向けかけて、それも失礼かもしれないとスクリーンから顔を動かさずに静止する。
目の前には、主人公の友人である大学生が、無職の主人公に自分の隠していた過去を独白するシーンが流れている。その過去というのが、14歳のときに家に来た父親の知り合いに襲われかけた、というものだった。淡々と語る友人の顔を、主人公は繊細に表情を変化させながら、黙って見つめていた。
隣に座る新田は、このシーンに何を思っているのだろう。少なくとも、いい気持ちではないだろう。
大学一年生の冬――新田は小泉に、「自分は14歳のときに、家にきた大人に襲われたことがあるのだ」と語った。まるで、映画のワンシーンがごとく、淡々と。
「ごめんな」
映画館を出た小泉は、ヒロインの女の子よりその幼馴染がかわいかったと力説している新田に真剣な声で謝った。力説の途中で突如謝罪された新田は、足を止めて徐々に不安を顔に滲ませていった。自分が何か重要なことを忘れているのではないかと考えているのだろう。
映画館を見終わった観客たちが駅の方向へと歩いていくなか、新田は立ちすくんでいた。新田の横をすり抜けようとした女性が、苛立たしげに眉をひそめ、反射的に新田が肩を引いてスペースを作る。
「ああいうシーンがあるって知らなくて」
「何が?」
少し頭を下げて新田が小泉の顔を覗き込む。ただ不安だけを湛えた瞳に、自分の謝罪が的外れだったのではという予感を抱える。ワンテンポ躊躇った後、小泉は更に、今の謝罪の補足を加えることにした。
「――なんていうか、配慮がなかっただろ。俺はお前が昔にやられたことを知っているのに」
「……あ」
小泉がやや声のトーンを落として答えると、新田は何度か目を瞬かせて口を中途半端な形に開けたまま静止した。小泉の謝罪の意図を、彼はようやく理解したらしかった。
一瞬の沈黙が二人の間に流れる。
「大丈夫だよ、小泉」
こちらの視線を受け止めきれずに顔をそむけることの多い新田は、そのときはなぜか、真っ正面から小泉の視線を受け止めたまま、穏やかに――春の海のように微笑んだ。
「小泉は優しいね」
小泉ははじめ、新田がこちらを気遣って「大丈夫だ」と言ってくれたのだと考えた。過去の傷は消えないけれど、それでも過去の出来事として処理できるくらいには月日が経った――だから、「大丈夫」なのだと。
しかし、それにしては新田の口調は軽かった。心の底から何でもない、例えて言うなら小学校時代の友人の近況を聞いたときのような、過去のある地点をただ思い出しただけの、軽さがあった。それに加えて、彼の瞳には小泉の謝罪に戸惑っていたときの不安は微塵も残っていなかった。そこには影もなかった。今の新田の瞳は、小泉を写しているだけだ。
「別にもう、終わったことだし」
さらりと口にする新田に、小泉は言いようのない不安を覚えた。それは、新田が小泉に対して抱いていたものとは、別のものだっただろう。ぞわりと、羽箒で神経を直接撫でられたかのような、恐怖を伴う不安。
新田が小泉を覗き込むのをやめて、姿勢を戻す。そうして彼は、何事もなかったかのように歩き出した。まとう空気も、振舞いも、話す内容も、小泉の謝罪の前と、何一つ変わらなかった。今のシーンを切り取ったら、一つもずれがなくシーンが繋がるだろう。
映画のなかのキャラクターの話を再開する新田の背中を眺めて、小泉は少しずつ、悟り始めていた。
理解し始めていた。
――今。
新田は、その経験を乗り越えて、過去のものとしたから、「大丈夫」と口にしたわけではないのだ。
本当に、「大丈夫」なのだ。もう、どうでもいいことだから。
彼のなかであの出来事は、もう 終わっているのだ。以前に彼が口にしたように、あの出来事は、両親が信じていた新興宗教を抜けるきっかけになった。それでおしまいなのだ。
あったことを考えれば、傷ついたことは確実だろうに、傷ついたことすら、処理が終わっているのだ。その傷は、あるべきものとして、彼のなかにある。
そう理解すると同時に、小泉は、彼の思考回路がまったく理解できないことを理解した。
わからない。
どうしてそんな風になるのか、わからない。
こいつのことが理解できない。
同じ人間なのに。
友達である、はずなのに。
後ずさりそうになるのを理性が止め、足がもつれて倒れそうになる。新田が咄嗟に手を伸ばし、小泉の腕を掴んだ。ぞくりと、背筋に鉄の棒を当てられたような感覚を覚える。彼はこの手を離してくれないんじゃないか。ありえないことなのに、その予感が消えない。
「小泉、大丈夫? 急にどうしたの?」
おそるおそる新田が尋ねる。彼の瞳には、再び不安が現れていた。
「あ、ああ。ちょっと、立ち眩みがしただけ。2時間座りっぱなしだったから。だからもう、帰るよ。俺」
「送ろうか? なんか、調子悪そうだし」
「い――」
新田は、俺が弱っていることを、本能的に察知しているに違いなかった。そういう「危機」に関して、新田は驚くほど敏感だった。それを俺は、新田との登山で身に染みて知っていた。2つのルートがある時に彼を頼ると、彼はほとんど100パーセントの確率で、より危険の少ない方を選ぶことができた。経験によるものと説明するには、いささか度を越していた。新田を先のある登山家として確立させている要素の1つは、この才能であったと思う。
俺にはない才能だ。
だから俺は、新田を超えることができない。
「――いいよ、俺は1人で帰れるから」
なんとか喉奥から絞り出した拒絶の言葉に、新田は何か言いたげな目をしながらも引き下がった。異変は感じているけれど、それを説明する言葉を持たないのだろう。
「わかった……」
新田の手をそっと振りほどき、立ち上がって足に力を入れる。そして俺は、唇を閉じ、頬に力を入れ、目を細めて、微笑んだ。こんな心持ちで微笑を浮かべられるのか不安だったが、1つ1つの顔の動きに分解してしまえば、そこに感情がなくとも笑みらしきものを作ることができた。しかし新田は、俺の顔を見て、安堵の表情を浮かべた。それは、きちんと感情によって自然に生じたものだっただろう。
俺は胸の奥に生じた罪悪感を押さえつけるように、自分の体を抱き締めて歩き出した。ざりざりと、靴とアスファルトがこすれる音がする。20歩ほど進んだところで振り返ると、新田は立ちつくして、こちらを見ていた。彼が俺の方へ歩き出したらどうしよう――想像すると恐怖が俺を襲い、足取りは自然と早くなった。
ああ、俺は彼のことが嫌いになった。
俺は部屋に帰ってきてから、靴を脱ぎ捨ててトイレへ駆け込み、胃のなかにあったものを全部吐いた。

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