創作男男:新田×小泉まとめ

7:新田がすごい登山家になったあとの話

比較的かわいい話。

 彼のことは「天才」だとは思わない。なぜならもっと才能がある登山家はたくさんいるし、彼が同時代の登山家たちの中でずば抜けて優秀なわけではないかだ。それに、楽器の演奏や美術作品の制作、スポーツと違って、山登りに必要なのは知識と運であり、そもそも山を登る「天才」がいるのかどうかも難しいところだ。
 ――だが、彼が「山頂に立った」という行いによって、人間の偉業を並べたリストに名を連ねることになるのは、紛れも無い事実である。彼は、地理的な問題と宗教的な問題が絡み合い、長年誰も立ち入ることを許されていなかったアジア中央部にある未踏峰の山頂に立った、正式な記録をもった登山隊のメンバー4人のうちの1人であったのだ。しかもその山頂は元々予想されていたものより300m以上高いことがわかり、日本でも彼らの登頂は大きく報じられた。
 これが登山家にとって非常に名誉な、人類史の栄光であることは間違いないだろう。
 だが。
 果たしてその偉業は、彼――新田明朗という男を天才たらしめているのだろうか。
「ごめん、小泉。もうちょっと待って……」
 脳のどこかに、現状で80億分の4、つまり20億分の1の割合でしか保有していない記憶をもった新田が、一瞬だけ俺に目を向けて、遠慮がちな声音で言った。
「別に急いでないからいいよ」
 もうかれこれ10分ほど、新田は何気なしに入った喫茶店で何を頼むかを思案している。メニューを見て頼もうと決めていたピザトーストが、今日はすでに終わっていると店員から告げられ、代わりに何を頼むか、悩みに悩んでいるのだ。注文票のバインダーを構えていた店員に「すみません、決まってからまたお願いします」と声をかけて、俺はただ、悩み続ける新田を眺めている。席について30秒ほどのタイミングで置かれたお冷の氷は、半分ほどの大きさに溶けていた。
 悩ましげに何度もメニューのページを前後させる新田の表情にはこの店に入った後悔もうっすら読み取れた。自分が頼みたいメニューが販売終了していたくらいで、と思うが、おそらくはピザトーストの代わりをうまく決められない自分への苛立ちと俺への申し訳なさがごちゃまぜになって、「こんなところに来なきゃよかった」という逃避が無意識下で出力されているのだろう。考えすぎだと思うが、新田はそういう性格の男だった。
 俺は大学入学以来、新田と付き合いがあった。つまりはもう、20年弱の付き合いだ。登山という共通の趣味――俺は長く登山をやっているが、新田は大学のサークルからはじめたという違いはある――のつながりで、それなりに交流も多い。だから、新田の考えていることはそれなりに予想できる。
 予想できるが、理解はできない。
 おそらく、俺たちがうまくいかなかったのは、それのせいなのだと思う。
 うまくいかない――ああ、そうだ。うまくいかない。
 俺は、新田の性格を疎ましく思っている。
 そして俺は、新田のことが嫌いだ。
 その状態を、「うまくいっている」という人間はいないだろう。
 新田のことが嫌いでもこうやって新田に請われて一緒に喫茶店で顔を突き合わせているのは、単に彼へ対する嫌悪が我慢できるレベルのものであり、30を越えた大人になってわざわざ嫌いな相手に嫌いというほどのことはしない、それだけの理由である。嫌いな人間のいなし方は、この歳になれば自ずと身に付く――はずだ。
 確実に、新田には身についていないものだろうけれど。
 いや。
 身についていると言ってもいいのかもしれない。新田が最も嫌いな人間、それは「自分自身」だろうから。人生を終わらせることなく今まで生きているということは、嫌いな人間への対処を心得ているということではないだろうか。
「プリンアラモードにする」
 俺が本格的にくだらない思索で時間を無駄にし始めたところで、新田がようやく決意の声をあげた。ピザトーストの代わりとしてなぜプリンアラモードに至ったのかというところまで、彼の思考を予想することはさすがにできなかったが、ひとまず10分の熟考に終わりがあったことに安心する。
 俺は客が去った後のテーブルを拭いている店員に声をかけた。店員はすぐに俺たちのそばまでやってきて、今度は何のトラブルもなく注文を終えることができた。ほっとした表情でテーブルの端に置いてあったスタンドにメニューを戻そうとした新田が、そこにあった期間限定メニューの紙に今更気づいて、小さく「え」と声を発する。気づいていなかったのか。自分で今まで眺めていたメニューだけを取ったから、わざとだと思っていた。
「……きのこチーズサンドだって。美味しそうだね」
 確かにピザトーストの代案として。プリンアラモードよりはきのこサンドの方が正しい気がする。
「追加で注文するか?」
「あ、ううん。大丈夫。言っただけ」
 新田は指先で摘んでいた期間限定メニューを元の位置に戻すと、落ち着きのない様子で店のなかへ視線を一周させた。こんなおどおどした男が、非常に危険な、未踏峰の登頂に成功したと、誰が信じるだろう。いや、一般的にみれば、そこは関係ないかもしれない。だが、登山経験のある小泉は、危険な山になればなるほど、いざというときの決断力の早さと集中力が無事下山するために必要であると知っていた。
「プリンアラモードのプリンさ、固い系のプリンかなぁ。やわらかいやつかな」
 俺に視線をあわせた新田が、やたらと嬉しそうに話し始める。彼にとって、俺は大学以来の大事な友人という認識なのだ。こうして、大学を卒業後も会ってくれる、大事な友人。親友だと思っているのかもしれないが、彼は己に対する評価の低さゆえに、俺へ「親友だ」と言えないらしかった。自分みたいなものと友人になってくれるだけで十分だ――彼はそう考えているし、同じ大学の大学院生のときに実際そう言った。だが心の底で、俺の存在を大学の学友たちのような「友人」からもう少し深いところにカテゴライズしていることも、俺はわかっている。新田が「小泉だから言うけどさ、」と前置きして話してくれたことはいくつもある。助けて、と手を伸ばされたこともある。俺はその手を取った。――残ったのは錆びついて取れにくい疲労感だけで、俺は結局、彼を助けることはできていない。
 それに彼も、俺に適切な助けを求めることはなかった。
「どっちだろうな」
 新田に対する仄暗い気持ちが、じわじわと体のうちに染みている。だが俺は今までと同じように、彼へ返事をした。
「あ、そういえばこの前ネパールに行ってさ。見てよ写真」
 新田がスマートフォンをズボンのポケットから取り出し、ディスプレイをスワイプして、ネパールへ入国した時に撮影した写真を見せてくる。それから、ネパールで登った山について語った。彼は、国際登山隊のメンバーに選ばれて、一週間前に帰国していた。
 登山中にあったトラブルや美しい景色を語る新田の話は、ひどく面白かったし、羨ましかった。その山を俺は登ることはないだろう。登るにしても、相当努力して、死ぬ覚悟をし、周囲から散々無理だと止められたうえでの話になる。
 なんでだろう。なんで、俺には登れなくて、彼には登れる山があるんだろう。
 そんなこと、わかりきっている。新田は登山で必要な能力を俺より持っていた。山にいるときの新田は、生き残るセンスに長けていた。必要なフィジカルもあるし、どんな状況でも眠る図太さもあった。登山中であればプリンアラモードに辿り着く十分を無駄にすることなく、瞬時に必要なことを決定できた。
「うらやましいな」
 素直に口にしてみる。
「すごいよかったよ。小泉も1回くらいは行ってみなよ」
 さらりと新田が答える。彼は俺がこの山に登る能力がないことを、うまくわかっていなかった。彼は俺のことを、自分と同等の登山家だと認識していた。そんなことはないのに。先に登山をはじめていて、大学で初心者だった新田に登山のことを教えた――そのままの認識で、彼は今でも俺のことを純粋に尊敬している。それは、嫌味ではない。ただ、自己肯定感が低いだけだ。勉強も、人付き合いも、生き方も、自分よりうまくできる。その人間が、登山でだけ自分より劣っているなんて発想に、至らないのだろう。
 だから俺は新田のことが嫌いだった。
 一緒にいると、苛々した。
 でも、どうすればよかったのか、わからない。
 それがまた、もやもやとしたものばかり胸の内に溜まって気持ち悪くて、嫌だった。
「お待たせしました」
 店員が銀のトレイから次々と、俺たちの注文した品をテーブルに並べ始める。

 新田は店を出たあとに、プリンは硬めだったと教えてくれた。それを聞いた俺は、内容のくだらなさに笑った。新田はつられて、楽しそうに口元へ笑みを浮かべた。

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