WEB再録「欲塵の旋律」

7.

 それから三ヵ月後、私は他の貴族との権力争いに巻き込まれ、源石の欠片で腕を傷つけられ――鉱石病を患った。

 感染者となった以上、権力ゲームの盤面から駒として弾き飛ばされたも同じだ。元々が私を権力のゲームから引きずり下ろすために用意された事故である。私は感染者となりゲームから降りたはずであったが、私という存在をこの世界から排除するための機構も、その先に周到に準備されていた。

 私は家を奪われ、きちんとした治療を受けることができぬまま、地獄のような日々を過ごし、運よくロドスという製薬企業に拾われた。

 私の鉱石病の進行はすでに残るはピリオドを書き上げるのみまできており、あとは痛みを緩和しながら余命を指折り数えるしかできないとのことだった。ロドスの医療オペレーターは、落ちぶれた私によくしてくれた。私は常に体のどこかが痛み続けるなかで、人生について考えていた。結局、私の人生に何の意味があったのだろうか。私は何を成すことができたのだろうか。私が権力争いに敗れたことで、私の一族は途絶してしまった。むしろ、私は何かを成すのではなく、何かを破壊してしまった。鎮静薬でほとんど眠りかけているとき、稀にツェルニーのことを思い出した。感染者の作曲家。彼は、感染者でありながら確実に何かを成していた。――こう考えること自体が、私が今、死にかけている理由なのだろうか。感染者も貴族も関係なく、皆、互いにただの人間であると理解できていれば、もっと違う人生になったのだろうか。

 ロドスの本艦で集中治療を受けて二週間経った頃、鉱石が広がり組織が壊死しはじめた右腕を切断することになった。元々痛む体だ、手術による痛みに不安などはなかった。私は麻酔をかけられて手術室に運ばれた。

 ――そして目が覚めると、何やら、なつかしさを覚える声が、鼓膜を震わせた気がした。

「…ぐに、……り…」

 朦朧とした意識のなか、なつかしさにすがるように私は耳に神経を集中させた。

「ほんの数分です。そのあとはすぐにあなたがたへお任せします」

「ですから! 彼は今、大きな手術を終えたばかりなんですよ! お分かりですか?」

「ええ、よくわかっています。しかし、今しかチャンスはないのです」

「私たちの言うことを聞いてください、ツェルニーさん、、、、、、、!」

 私はその響きに、ハッと息を飲んだ。リザーバマスクの内側が、呼吸の乱れで白く曇る。視界がぼやけている。しかし赤茶の髪をした誰かが、私の横たわるストレッチャーのそばに居るのがわかった。医療オペレーターが、なおもその人物に甲高い声を向けている。

「彼をどこに連れて行こうというんですか!」

ピアノのそばです、、、、、、、、

 全身麻酔が切れかけているものの、体を動かす元気は残っていなかったため、私はなすすべなく、その会話を聞いていた。耳に心地の良い低音が、私の過去からツェルニーの思い出を引っ張りあげる。

 なぜ、彼がここにいるのだろうか。

 押し問答を繰り返しながらも、私の乗せたストレッチャーはどこかに進んでいた。ひときわヒステリックに医療オペレーターが叫んだかと思うと、ストレッチャーが止まった。私が元々、朦朧とした意識のなかで過ごしていた病室と壁の色が違う。目がかすんではっきりとは見えないが、天井から注ぐのは蛍光灯の青白い光ではなく、やや赤みがかった温白色の光だった。

 ストレッチャーのタイヤが回って生じるガラガラという音が止み、私の周囲にあるのは自らの荒い呼吸音だけとなった。嗚呼、ツェルニーがいるというのに、私が奏でるのは死にかけの喘鳴ばかりだ。本当に、音楽の才能がない。教養として多少は楽器を触ったが、教養以上の技術を得ることはなかった。

「――あれから、随分と時間が経ってしまいました」

 心配そうに医療オペレーターが私の顔を覗き込むが、聞こえてきた声は明らかに彼女のものではなかった。嗚呼、そうだ。これはツェルニーの声だ。彼はどこに行ったのだろう。声が聞こえるのだから、近くにいることは確かだけれど。

 少しずつ自由の戻ってきた体に力を入れて、首を動かし周囲の様子を伺う。左に顔を向けると、何やら黒い物体が視界に入った。そしてそのそばに、赤茶の髪をした人間が居る。ワンテンポ遅れて、私の頭はその黒い物体をグランドピアノだと認識した。

 ツェルニーが、ピアノの前に座っている。その事実を理解したとき、私は声をあげようとして唾液を気管にからませてしまった。落ち着いて、ゆっくり呼吸してください、と医療オペレーターが私に声をかける。

 ツェルニーは私の方を見ることなく、すでに鍵盤に意識を集中させていた。白と黒の樹脂を見つめて、服の裾を後ろに払う。私は、かつてコンサートホールでそうしていたように、呼吸をできる限りゆっくりにして、息をつめた。

 ツェルニーの大きな手が、鍵盤に乗る。

 そして、ゆっくりと、だが繊細に、動き出す。

 はじめはピアニッシモの、とても小さな響きから。徐々に大きくなる音が、まるで歌声のようにこの部屋の空気を震わせる。重厚な和音が、静かに空間を支配していく。彼の行動に声を荒げていた医療オペレーターも、彼の演奏に意識を奪われていた。

 物悲しく響く高音と、一定のリズムを刻む低い和音。

 ――これは。

 ――これは、あのとき、聴かなかった。

 ――レクイエムだ。

 感染者たちのために作った曲であると、貴族相手のコンサートで演奏することを真っ向から拒絶した、あの曲だ。

 即興曲第六十二番 ニ短調――『レクイエム』。

 彼の手が軽やかに鍵盤の上を跳ねている。終わりかけている私の前に本当の自由を示すように、自由に旋律が移り変わっていく。澄んだ響きが、静かに私の人生に沁みていく。

 美しい、曲だった。

 一瞬の間を置いて、ツェルニーが強く鍵盤を叩く。鼓舞をするように、私が死んでも良いところに歩いていけるように、その人生に意味はあったと神に言い聞かせるように。

 嗚呼、そうか。

 これが――彼のレクイエム。

 死にゆく者に贈る、曲。

 鍵盤を叩くペースが遅くなっていく。主旋律を転調して繰り返しながらも、細く細く、音が続いていく。

 しかしすべてには終わりがある。

 すべての人生にも、この曲にも。

 ついに音が止まる。

 レクイエムが、終わる。

 ツェルニーの手が、鍵盤から離れた。

 私の目尻からは、いつの間にか涙が流れていた。

 最後の一音の余韻が完全に部屋から消え去った完璧なタイミングで、ツェルニーは立ち上がり、医療オペレーターに非礼を詫びると丁寧に感謝の言葉を続け、それから私の方を顧みることなく部屋から出て行った。医療オペレーターが一瞬、彼を追おうと体を動かしかけるが、職務に真摯な彼女は手術を終えた私を置いて行くわけにはいかず、最終的には腕を伸ばすのみに留まった。

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