2.
客席に座る貴族たちの咳払いや服の擦れる音が聞こえてくる。愚かにもお喋りに興じる人間はいないが、それでもさまざまな音が、このコンサートホールにはあった。
人は無音になることはできない。
呼吸音、血液が流れる音――生きている以上、何かしらの音を発し続けている。
無論、それは自分も例外ではない。
そんなことを考えながら、ツェルニーはステージに向けて一歩を踏み出した。チャリ、と右の角に付けられたアクセサリーが揺れて音を立てる。今日、公演がはじまる前に、貴族の一人からプレゼントされたものだ。生きている限り人間は音を発し続けると言っても――このように余計な音をたてるのは本意ではない。重さは今のところ気にならないが、繊細な動作を必要とするピアノ演奏に影響しないとも限らなかった。
天井についた暖かい色の照明が、ツェルニーを容赦なく照らし出す。それは本来であればステージ上の人物を煌びやかに描き出すものであったが、今は見世物を露悪に目立たせるものでしかない。
こうして貴族の前で演奏をするのは何度目だろう。ツェルニーは三度目あたりで、早々に数えるのをやめていた。その数字が増えていくことは恐怖でしかなかった。
客席から浴びせられる視線は、期待や敬意ではなく、自然とこちらを見下す物珍しさを多分に含んでつけすぎた香水のように甘ったるい。
貴族にもらったアクセサリーを角につけ、貴族にもらった宝石をタイにはめ、貴族が出した金でコンサートホールを貸し切り、演奏をする。もし、ステージに出てきた者がそのように装飾を施されたツェルニーでなく、炎国に住む極彩色の羽獣だったとしても、観客たちは自分の思っていたのと違うものが出てきたと文句を垂れるだろうが、最終的には「これはこれで珍しい」と納得して、同じように「鑑賞」するのだろう。自分で自分の想像に吐き気を催す。なんて無様なのだろう。
だが、生きるためにこの生活を受け入れたのは、紛れもなくツェルニー自身だ。生きることそれ自体に執着しているわけではない。ただ、死んで作曲も演奏もできなくなることが嫌だった。それは死ぬことよりも恐ろしい、とツェルニーは思う。
ピアノの前にたどり着き、黒い椅子に座る。観客に晒している体の右側にちりちりとしびれるような好奇の視線を感じる。
嗚呼――見ているがいい。
そこに座っているがいい。
目は閉じることができるが、耳は閉じることができないのだから。
一度、深く息を吸って吐く。体の位置を調整し、ペダルの先端に爪先を置いた。鍵盤へと手を伸ばす。一曲目はピアノソナタ第八十一番・ヘ長調「自由への賛歌」だ。
意識を集中する。
貴族たちから向けられる好奇心の視線を感じなくなる。指先に触れている鍵盤の冷ややかな感触だけが、自分と世界を繋ぐ唯一のものになる。指に力を込める。はじめの一音を鳴らすため、ハンマーが弦を叩く。その瞬間、ずっと感じていた吐き気がきれいに霧散した。
観客たちの音が消える。
そうだ。そうしているといい。今、私が必要としているのはお前たちの音ではなく、細い弦が奏でる歌うような高音だ。
思考よりも早く旋律が進んでいく。
お前たちがどんなに権力を持とうと、感染者という存在に嫌悪を示そうと、私が音楽を奏でるこの瞬間を、壊すことはできない。
決して。

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