WEB再録「欲塵の旋律」

5.

 ツェルニーは大きな疲労感を抱えていた。なぜ、彼らはわかってくれないのだろう。作曲家が「この曲は今回、演奏したくない」と言っている、その希望を、なぜわかってくれないのだろう。我ながら、今回の新曲は会心の出来であると思う。それを生演奏で届けることのできるコンサートの機会は有難い。しかし、初稿の楽譜にも書いてある通り――この曲は、感染者へ向けて書かれたものだ。楽譜の最初には、演者への指示のかわりに「すべての愛すべき感染者へ捧ぐ」と記してある。なぜ、見世物となってまで私は生きているのか。それを確かめるために作った曲でもあった。多くの人へ自分の音楽を届けたい――それが例え、今は届かない人であっても。だから私は生きていたいのだ――そういう、単純な思いを、この新曲に込めていた。

 即興曲第六十二番 ニ短調『レクイエム』。

 悲嘆のなかに死んでいった感染者たちへの鎮魂歌。同じ感染者であるツェルニーにとって、この曲がほかの曲と一線を違うものであることは、すぐに理解されると思っていた。現にゲルトルーデ・ストロッロは、ツェルニーから初稿を渡され一通り目を通したあと、珍しく戸惑いを表情に表して、「素晴らしい曲だけれど、これはきっと素晴らしいという言葉だけでは足りないのね」と感想にすらなっていない独り言を発した。

 トライバー伯爵は未だに、どうして拒否されているのかわからないという顔をしている。

 その時――ツェルニーを襲ったものは、疲労感とは別の、巨大な諦念だった。自分自身は見世物であったとしても、自分の音楽は好奇心を超えて本当の芸術として存在している。自分がいくら見世物にされていても、自分の作品そのものは消費されていなかった。だが――そうではなかったのだ。彼らは「ツェルニー」という存在のみならず、ツェルニーが作った音楽たちも、自分たちの玩具と思っている。だから、自分の思うように動かないのが不思議でならないのだ。例えそこに、どのような抵抗があったとしても。

 結局のところ――自分は彼らの暇潰しの道具でしかない。

 冷静に考えれば、そうではなく、真にツェルニーの音楽を理解する者も多くいるだろうと思い直すことができただろうが、一度たどり着いたその荒野の果てに、ツェルニーは呆然と立ち尽くした。

 諦念の次に湧いてきたのは怒りだった。

「私は――」

 どうして分かってもらえないのだろう。

 どうして、こうなってしまったのだろう。

「あなたたちの玩具ではありません」

 アクセサリーをくれた貴族が、その言葉に泣き出しそうな顔をした。

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