6.
「このレクイエムは感染者に向けて書いたものです。あなたたちの前で演奏するつもりはない!」
先ほどまでの淡々とした口調とは打って変わって、ツェルニーは激情に任せて声を荒げた。まるで金管楽器を多く用いた彼の交響曲第三番のようだ、と私は思った。弦楽器で物悲しい旋律を奏でる第二楽章から切れ目なく第三楽章へ繋がる、あの瞬間。そういえば、交響曲第三番が、はじめて生で聴いたツェルニーの曲だった。あれはリターニア国立管弦楽団の定期演奏会で、楽団の首席客演指揮者がタクトを振っていたと記憶している。
トライバー伯爵は唇を僅かに開いてぽかんとツェルニーの激昂を受け止めたが、ハッと我に返ると「それはどういう意味かね」と上ずった声で答えた。強制的に意識を持っていかれて生じるこの間も、交響曲第三番の第三楽章がはじまったときに似ている、と私は思った。
「ですから再三言っているではないですか。この曲をあなたがたの前では演奏いたしません。これはあなたがたの曲ではないのです。ご理解ください」
「何を言っている! 曲の意図がどうであろうと、金を出している私たちに曲を聴く権利はあるんじゃないのか?」
「ですから!」
ダンッ、とツェルニーが握ったこぶしで机を叩いた。その衝撃で没になったものか、乱雑に積み上げられていた楽譜の山が崩れ、はらはらと机の周囲に散らばった。過剰といえるほど手を大事にしているツェルニーが力任せにこぶしを叩きつける様子に、私は自分が痛みを覚えるようだった。それはどうやらストロッロ伯爵も同じだったらしい。静観していたはずの彼女はいつの間にか前に出て、トライバー伯爵の肩に手をかけた。
「申し訳ございません。ツェルニーは、こればかりは譲れないようです」
にこりと品よく作り上げた微笑みの上に、有無を言わせぬ圧力をかぶせている。彼女もリターニアのなかで没落することなく権力を維持している貴族の一人だったと、思い出さざるを得ない微笑みだった。
トライバー伯爵はわなわなと唇を震わせ、ストロッロ伯爵の手を振り払うと、目の前のツェルニーのジャボを乱暴に掴んだ。
ツェルニーはただ、目の前のトライバー伯爵を眺めている。その目はひどくつまらなそうだった。ステージに出たときも、私のアクセサリーを受け取って心のこもっていない感謝を述べたときも、このような目はしていなかった。
「トライバー伯爵!」
ストロッロ伯爵の鋭い声に、トライバー伯爵はようやく体から力を抜いた。
「――こうなったからには、わかっているだろうな、ストロッロ伯爵」
「……ええ。勿論。私も何の責任なしに間へ入ったわけではありません」
ストロッロ伯爵はリターニアの貴族らしく、すぐに思考を切り替えると痛憤している彼の肩から手を離し、入り口の方へと誘導した。すぐにツェルニーの世話をしている女中がドアを空ける。
ドアが閉まると、すぐにトライバー伯爵のものらしき興奮した男性の声が聞こえてきた。何を言っているかはっきりしないが、怒気が含まれていることだけは確かだ。ツェルニーは閉じられたドアの方向をじっと見たまま、しばらく黙り込んでいた。
沈黙に耐え切れず私が口を開きかけたタイミングで、ツェルニーも堪えきれなくなったのか、ドアから視線を外すと、机に叩きつけたこぶしをまじまじと観察し始めた。切り傷はないが、小指から手のひらにかけての側面が赤く腫れている。ツェルニーの表情に不安が混じった。
「赤く、なっていますよ」
作曲家であると同時にピアニストでもあるツェルニーにとって、手は自分の体のなかでも特に大切な部位だろう。かつて彼を訪ねた際、楽譜の縁で指先を切って滲んだ血を見たツェルニーは、慌てて女中の名前を呼んでいた。
私の言葉に、女中がツェルニーの代わりに顔を青ざめさせて、応急手当用の道具が詰まった木の箱を部屋の戸棚から取ってきた。ツェルニーを座らせて手首を掴み、赤く腫れた箇所を眺める。指を曲げると痛みますか、手首は回すとどうですか、とピリピリとした声で質問を矢継ぎ早に投げかける女中に、ツェルニーは意外にも動揺を見せることなく淡々と回答していった。
私は女中がツェルニーの手に薬を塗り、ガーゼをあてる光景をぼんやりと眺めていた。
ツェルニーはふいに、何よりも大事にしている自分の体の一部から視線をはずして、顔をあげた。ツェルニーの前に立っていた私と視線がかち合う。すぐに離れると思われた視線は、一つの線として繋がったまま、静止した。
「私は」
ツェルニーが口を開く。
「作曲者として失格でしょうか――――作曲家にどのような意図があろうと、聴衆側にそれを押し付けることはあってはなりません。旋律が作曲家にとっての言葉であったとしても、その意味を解釈するのは、あくまで聴衆側です」
女中が何か言いたげにツェルニーの横顔を見つめる。しかし彼の顔は、私に向けられたままだった。聴衆として何度もコンサートホールの柔らかな椅子に座っていた――私に。
感染者の作曲家として、彼を物珍しさから喜んで眺めていた私に。
「そ、れは……」
私は言葉を詰まらせるしかなかった。それを認めてしまえば、私はトライバー伯爵と同じになってしまう。いや、事実そうであるのだ。しかし私は、彼と対立したトライバー伯爵と同じ側に立ちたくはなかった。この部屋に残された人間を許されたままでありたかった。それは醜い欲望であると指を刺されてもおかしくないものだった。だが私は、ツェルニーの言葉を肯定する勇気を持たなかった。ツェルニーの角についたアクセサリーが視界に入る。
ガチャ、とドアが開く音がして、私と女中は同時に音のした方へ視線を走らせた。そこにはやや――いやかなり憔悴したストロッロ伯爵が腕を組んで立っていた。気づけば、トライバー伯爵の声はしなくなっていた。
「ツェルニー、残念ながら音楽教育出版社は、今後あなたの楽譜を受け取る気はないそうよ。きっと今回のレクイエムについても、他の出版社に出版しないようにと圧がかかるでしょうね」
怪我の手当が終わり、女中がツェルニーから手を離す。彼はガーゼの具合を確認し、指を数度折り曲げて動きを確かめた。
「とても素晴らしい曲だけれど、出版は諦めるしかなさそうね」
ツェルニーの反応を確かめようと彼に向き直ると、彼はそっと視線を落としていた。その足元には机を叩いた拍子に散らばった楽譜が落ちている。私はそれらを拾い上げ、ツェルニーに差し出した。彼は私の行動をうまく解釈できずに、ややこわばった口元で「ありがとうございます」と礼を述べた。彼は私から受け取った楽譜を丁寧に一枚ずつ見ていき、こわばらせた口元と肩の力をゆるやかにほどいていった。
「やはり私は作曲家として失格でしょうね。少し、驕りが過ぎたようです」
女中はすでにツェルニーから離れて、他の仕事をしている。自分のなすべきことをしている。私はこの場で、何をなすべきなのかわからなかった。
「このレクイエムの楽譜が出版されれば、私のコンサートに来られない人々にも私のレクエムを届けることができたでしょう。ですがそれは叶わなくなった。子どもの未来の可能性を摘み取った親は、親として不出来でしょう」
楽譜に書かれた音符を追う瞳には、コンサートのときには決して見られない陰があった。ステージの上に存在する彼は常にぴんと背中を伸ばして、精悍な顔つきをして、聴衆をしっかりと視界に収めながらも、我々を通り越してどこか違うところを見ていた。音楽の神が見えているかのように、澄んだ瞳を遠いところへ向けていた。
その姿は間違いなく「音楽家」だった。
「しかし――私は、作曲者として在る前に、一人の人間なのです」
私は彼の言葉に反応することができずにいた。私に、この言葉へ何か応える資格はあるだろうか? 今まで、ステージの上の彼を人形のように飾り付け、ショーを眺めるようにステージの上でスポットライトを浴びた彼の指がグランドピアノの鍵盤を押す光景を見続けてきたこの私に?
「私は、音楽ではないのです」
嗚呼、そうか。
彼は音楽に――選ばれたのだと思っていたが。
逆なのだ。
音楽が、彼に選ばれたのだ。
彼は自分の意思で「音楽」を愛し、そのために人生を捧げることを選んだ。
その時、ようやく私は――ウィリアム・フィフター・ツェルニーという男を、認識できたように感じた。「ツェルニーという名の作曲家」ではなく、ウィリアムという名を持って生まれた一人の男を、音楽を仕事にして生きる男を、この目ではっきりと見た。
そこにある強固な意志とたしかな才能を、この目に焼き付けた。
美しい存在だと、思った。
「……ええ、わかっていますわ」
沈黙する私に代わって、ツェルニーの言葉に応えたのは意外にもストロッロ伯爵だった。彼女はしっかりとツェルニーを見据えている。
貴族の前に彼を見世物として引きずり出したのは彼女であることは間違いない。しかし彼女は、躊躇いなく、ツェルニーを「人間」であると認めた。リターニアの塔の偉大さを認めるように、さも当然と、ツェルニーの言葉を肯定した。
もしかすると、この場で最もツェルニーのことを理解しているのは、ツェルニー自身ではなく、ストロッロ伯爵なのではないかと思わせるほどに。
ツェルニーとしても、私から反応が得られるものと思っていたのだろう。僅かに目を見開いたが、瞬時に驚きを薄い微笑みへと変換した。それから、私が手渡した楽譜にもう一度ゆっくりと目を通した。最後まで視線でなぞると、彼は立ち上がり、その紙の束を壁際のアップライトピアノの譜面台に置いた。
「このレクイエムは、もうコンサートで演奏されることはないかもしれません。どうです、今、聴いていかれますか?」
――願ってもない、申し出だった。
ツェルニーの音楽の一ファンとして考えるのであれば、多少痛い目にあっても、財産の半分を売り払っても、聴いておきたい機会ではある。しかし私は、あれほどのツェルニーの激昂を見て、なおも貴族然としたままでいられるほど、強くはなかった。
「いいえ」
ツェルニーは私の言葉にまたもや目を見開いた。普段の尊大さから、嫌味の一つでも出るものと思っていたが、彼は「そうですか」と感情の乏しい声で呟いて、譜面台に広げた新譜を整えた。
「聴きたくないのではありません――あなたが演奏すべきと思われる場所で、適切な手続きをとった後に聴くべきだと考えただけです」
慌てて私は言葉を付け足した。ストロッロ伯爵が嬉しそうに「そうですわね」と同意する。
「私もそう思いますわ。ツェルニー、あなたが演奏するこのレクイエムを聴けるときがくることを願ってます」
ツェルニーが優しく微笑する。それは私がはじめて見る、ツェルニーの表情だった。このように穏やかで人間らしい表情ができるのかと、私はぼんやり考えた。

コメント