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コンサートが終わり、私は上機嫌で舞台裏にある彼の楽屋を訪ねた。彼は音楽の神に選ばれている。それを、より一層美しい形に彩ったのが私なのだ、そんな自尊心に意識を浸しながら、楽屋へ案内してくれたスタッフに感謝のチップを握らせてドアを開けた。
はじめに目に入ったのは、ツェルニーのパトロンというべき存在の、ストロッロ伯爵の後ろ姿だ。ゲルトルーデ・ストロッロ。彼女は感染者であるがゆえに匿名で音楽を発表していたツェルニーを見つけ出し、実名での発表を可能にした。本来、ストロッロ家を継ぐはずであった兄が死亡するなど、不穏な影のある人物であるが、ただツェルニーを愛好するだけなのであれば、彼女はただの良きパトロンである。
だから、ストロッロ伯爵がコンサートの後にツェルニーの楽屋にいることはなんら不思議ではないのだが――頭の上の耳をぴんと立てて、立ち尽くしている彼女の纏う雰囲気は、ひどく剣呑だった。
虚をつかれたが、私はそのまま部屋のなかへと進み出た。ストロッロ伯爵より奥、部屋の中央にはツェルニーが眉間に深いしわをつくってコンサートのときの衣装を着替えることもしないまま立っていた。私のつけたアクセサリーもそのまま右の角についている。私はそれを見て、この部屋にある不穏な空気をほとんど忘れてしまった。
部屋のなかにはストロッロ伯爵とツェルニーの他に、ツェルニーの身の世話をしている年を取った女中と、それから――大柄のひげを生やしたシルクハットの男がいた。見覚えのある顔だ。私はツェルニーのコンサートの感動でゆだった頭のなかから彼の名前を引っ張り出す。ああ、そうだ。トライバー伯爵。音楽に造形が深く、自身が代表を務める「音楽教育出版社」は新旧さまざまな作曲家の楽譜を出版しており、そのなかには勿論ツェルニーの楽曲も含まれていた。
「今、なんとおっしゃいましたかな? 演奏をしない?」
トライバー伯爵は、ゆったりと首をかたむけてひげを撫でた。どうやら取り込み中だったところに入ってしまったようだ、と、私はようやく我に帰った。ここにくるまで頭のなかを埋めていたツェルニーへの賛美の言葉が冷えて消えていく。ストロッロ伯爵は、部外者である私は一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
ツェルニーは深くため息をついて、そばに設置された机の上の紙の束を手に取った。
「ええ。申し出は有難く思いますが、先日初稿をお渡ししたこの新曲は――次回のコンサートでは演奏いたしません。いえ、次回とは言わず……私はこの曲を、感染者のみを観客としたコンサートでしか演奏したくないのです」
新曲。
私が思わず「新曲ですか」と声をあげると、ツェルニーとトライバー伯爵の二人分の視線がさっと私に向けられた。両方ともいささかとげのある種類の視線だった。二人はほぼ同時に、なぜお前がここにいるんだという疑問を沈黙に混ぜ込んだが、ツェルニーが嫌そうに眉をひそめたのと対照的に、トライバー伯爵は獲物が罠に引っかかったときのようにニタリと笑った。
「御覧なさい。このようにあなたの新曲を楽しみにしている方がいるのです。それをなぜ、渋るのですか?」
トライバー伯爵の言葉に、ツェルニーはしばし沈黙を貫いた。私は、余計な一言を言ったに違いなかった。ツェルニーは私を睨むと、ゆっくり頭を振った。チリチリと、私の贈ったアクセサリーが小さく音を立てる。
「申し訳ありません。他の楽曲の希望があれば、あなたの望むとおりにいたしますので」
「ツェルニー、どうしてもだめなのかしら?」
トライバー伯爵とツェルニーの会話を静観していたストロッロ伯爵が、丁寧な口調で確認する。

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