欲塵の旋律

人間の意思疎通は主に、言葉によって行われてきましたが、音楽は時に、言葉を超えることがあります。私はその音楽の力を信じて、このレクイエムを書きました。
ですから、これ以上語ることはありません。どうぞお聴きください。

――音楽家・ツェルニーの言葉、リターニア内某感染者地域でのコンサートにて。

 ゲルトルーデ・ストロッロ伯爵に導かれ辿り着いたドアの前で一度立ち止まり、私は手に持っていたアクセサリーの宝石を指先で弄んだ。彼の瞳の色と同じ、青みがかった緑色の宝石である。宝石の周囲には音符と花を象った銀装飾が施されている。ひんやりとした硬い感触が、ステージから降りたツェルニーが我々に向ける冷ややかな視線を思わせ、私の心は無駄に踊った。
 彼は果たして喜んでくれるだろうか? とストロッロ伯爵に問うと、伯爵はニコリと丁寧に貴族風の笑みを浮かべた。つまりは本心を見せず、返答を曖昧に濁すための笑みである。

「音楽以外に興味はない人ですから、どうでしょう。ですが、きっと彼によく似合いますわ」

 私は彼女の形ばかりの返答に満足して頷くと、よく磨かれたドアノブに手をかけた。

「やあ。今日はプレゼントがあって来たんだ」

 ドアを押し開ける。真っ赤な絨毯が敷き詰められた室内。その右手の壁際に、ぽつんとアップライトピアノが置かれていた。重厚感のある黒が、絨毯の赤によっていっそう引き立てられている。私のお目当ての人物は、ピアノの附属品のように、鍵盤の前に何をするでもなく座っていた。てっきりリハーサルとしてピアノに触れているものと思っていたが、彼は軽く握ったこぶしを太腿の上に置いて、じっと白と黒の盤面を眺めていた。
 ワンテンポ遅れて彼が反応し、こちらを振り向く。赤茶色の髪がファサと舞い、静かに戻る。彼――ウィリアム・フィフター・ツェルニーは、私の姿を認識すると同時に眉をひそめたが、一瞬で表情を立て直して腰を上げた。

「ああ、座っていて構わない。今日はこれを買ってきたんだ」

 私は彼を手で制して再びピアノ前の椅子に座らせると、彼に近づきその手をとった。ぴくりと彼の指先が震える。ピアニストらしい大きな手。手のひらの上に持ってきたアクセサリーを乗せ、その美しさを彼に見せつける。青緑の宝石と、音符と花の銀装飾。彼はこの宝石が、瞳の色と同じだということに気が付いただろうか?

「ありがとうございます」

 彼は感謝の言葉を口にしたが、ちっとも有難く思っていないことは、その乾いた声音から明白だった。だが、構いはしない。私が彼にこのアクセサリーを買ってきたのは彼に喜んでもらうというよりは、ステージの上の彼がより美しく見えるようにするためだ。
 私は彼の手のひらの上からアクセサリーを回収すると、彼の右の角にそのアクセサリーを付けた。カチャリと留め具で固定する。まるで彼に首輪をつけたような気分になって、私は仄暗い欲望を胸の奥底に感じた。その欲望を知ってか知らずか、彼は無表情のまま、私の顔を見上げた。私は彼に微笑んで見せた。

「よく似合っている」

「ありがとうございます」

 彼は再び乾いた声で礼を述べた。その感情の希薄さは、彼の作った音楽に溢れるさまざまな思いをまったく感じさせぬもので、クルビア製のロボットのようだった。私は彼の肩に手を置いた。もちろん、白手袋をしているから、感染者と触れ合っても問題はない。白手袋越しに彼の肩が跳ねるのがわかった。ここにいるのは生きている人間だ。そのことを認識し、私の仄暗い欲望がじんわりと心のなかの領土を広げる。

「そろそろステージに行かなければなりませんので」

 彼はそう言って、私の手を肩から離し、立ち上がった。彼の言うように、それからすぐにコンサートホールの係員がツェルニーを呼びに来た。彼が立ち上がると、私がつけたアクセサリーの金属でできた花弁同士が触れ合ってチャリチャリと涼やかにかすかな音をたてた。

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