最近考えたことの雑記です。
①コミュニケーションについて
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
#ツイート #イマジナリー大衆 #考えたこと
①コミュニケーションについて
昨日、会社の同僚とご飯を食べながらコミュニケーションについて話をした。話の入り口としては、情緒不安定な人に対しての話だったのだが、最終的にはコミュニケーションの話に落ち着いた。そこで「みんなコミュニケーションを甘くみすぎている!」とお互いに語っていた。(ちなみに、「メンヘラ」系と「鬱屈」系についても(主に私が)語っていたのだが、これを「開放」系か「閉鎖」系かと表現した同僚はやはりすごい。たしかにそうだ。自分を超えて周囲に影響を求める鬱鬱具合か、自分のなかで閉じこもって鬱鬱具合か)
自分の主張を相手に伝えることが「コミュニケーション」じゃないんだよなー。
そうすると声のでかい人がコミュニケーション強者となってしまうので、ちょっと違うんだよな。声がでかいからコミュニケーション強者というのは、けっこうよくある勘違いだと思うのだけど(特にオタクで)、意外と周りがあわせてあげている/聞いてあげているという状況もあると思う。わざわざそうしていることを言うと面倒だから、そのままにしておくと、「私の話聞いてくれている!」と勘違いして「私はコミュニケーション能力がある!」と勘違いする人が出てくるわけだが。まあ、コミュニケーション能力があるかないかでいったら、ある方だと思うけど(ない人は本当にないので)、コミュニケーションがうまいかというと、そうでもない。もっとコミュニケーション能力が高い人はいるだろ!
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
声がでかいことがコミュニケーション強者だと感じている人、おそらくコミュニケーション能力が本当に高い人と会ったことがないんだろうなぁ!
もっといろんな人と会った方がいいですよ!
ということで、ここ一年以上ずっと感じていることについて。最近、いろんなことに対して「友だちは多い方がいいよな!」と感じる。
マジで残酷な話なんですけど、友だちは多い方がいい。もちろん、心を許せすべてを話すことができる「親友」レベルの人はそんなにいなくてもいい。ただ、相手がどう思っているかは置いといて、こちらとしては友だちと言いたいのだけど…という人は、多い方がいい。何が言いたいかというと、「たくさんの人間のパターンを知っておくと良い」ということだ。
今はとにかく情報が多いうえに、一旦思考がロックされると抜け出せなくなっている(似たような意見・情報がいくらでもサジェストされる)。それを防ぐには、いろんな考え方の人の意見を見ることが大切だ。ただ、結局、いろんな考えの人をインターネットで探しに行っても、ある程度偏ってしまう。
類は友を呼ぶで、まあ自分の周囲にいる友だちが一定の方向性をもっていることはあるだろうけれど、数を多くすれば、そこそこばらけてくる。しかも思考の方向性が似ていたとしても、持っている情報が違って、知らなかったことがわかったりもする。
この前、宇野さんと箕輪さんの対談動画(無料版だけど…)を見ていたら、「(これから)一次情報・生データにアクセスできる信頼できる友人を持っている人だけが検証コストが低い情報やその解釈に触れることができる」ということを言っていて、「う、うわ~~~~!」と苦しくなった。でもたぶん、そうなりつつあるのを感じつつあると思う、いろんな人が。もうなってる。
誰かに教えられる、一方的に発信される、じゃなくて、「あ、そうなんだ~!」という気軽さで、どれだけ多様な情報・考えに触れられるかが、今後重要なんじゃないかなって思うんですよぉ!
で、でもそれって、あまりに残酷じゃないですか?! 全員友だちが多いわけないじゃないですか!!
友だちは多い方がいいって当たり前だけど、友だちが多い人の友だちって、友だちが多い人なんですよ!!(泣きながら)
格差の話がいろいろなところで言われているけれども、じつはこの格差もけっこう深刻だなぁと私は思うんですよね。考えるたびに、きっつーって思うわけですよ。そしてこの話の苦しいところは二つあって、一つは「好きなものを通じて知り合った友だちじゃだめで、ある程度雑多な人々がいるなかでできた友だちが非常に有効」ということ。似た人間がいくらたくさん「友だち」でも、まあ多少は広がりはあるものの、考え方や情報の広がりはそんなにない。でもSNSは好きなもので繋がる友だちをつくる方が簡単。きっかけが好きなものが一緒だった、は全然いいんだけど、まったく一緒じゃない、くらいの友だちがいいんだと思う。最近、考えが近い(つまりそばにいてストレスが少ない)「友だち」を選ぶことが多い、ような? ううん。
もう一つは、人間関係を切ることが簡単になったこと。SNSやってるなら、そのなかで知り合った友だちも一定数いると思うんですが、その友だちと疎遠になるって、SNSのアカウントをブロックないしは削除すればいいのですごい簡単。というか、オタク界隈では「ジャンルの切れ目が縁の切れ目」という言葉があるし、ジャンルごとにアカウント分けることもできるし、人間関係が総じて軽くなっている気がする。で、でも、友だちってそんな簡単に切れないものだったのでは? いや、切れないことの苦しみもたくさんあるけど、前提として友だちの有効期限というか、友だちである期限が短くなっているような。
人間たち~~~~!!!
いやもう、見てて「大変そうだなぁ。たぶんこの人、友だち少ないんだろうなあ。認知している人間のパターンが少なすぎるよ」と思う案件が複数あるよ。
↓宇野さんと箕輪さんの動画(無料)。私の好きな陰キャと陽キャの組み合わせなので、ニコニコしながらオタ活として見ていました。このお二人も、知り合いというか友だち何だと思うけど、性質は全然違う訳で。
畳む
①コミュニケーションについて
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
#ツイート #イマジナリー大衆 #考えたこと
①コミュニケーションについて
昨日、会社の同僚とご飯を食べながらコミュニケーションについて話をした。話の入り口としては、情緒不安定な人に対しての話だったのだが、最終的にはコミュニケーションの話に落ち着いた。そこで「みんなコミュニケーションを甘くみすぎている!」とお互いに語っていた。(ちなみに、「メンヘラ」系と「鬱屈」系についても(主に私が)語っていたのだが、これを「開放」系か「閉鎖」系かと表現した同僚はやはりすごい。たしかにそうだ。自分を超えて周囲に影響を求める鬱鬱具合か、自分のなかで閉じこもって鬱鬱具合か)
自分の主張を相手に伝えることが「コミュニケーション」じゃないんだよなー。
そうすると声のでかい人がコミュニケーション強者となってしまうので、ちょっと違うんだよな。声がでかいからコミュニケーション強者というのは、けっこうよくある勘違いだと思うのだけど(特にオタクで)、意外と周りがあわせてあげている/聞いてあげているという状況もあると思う。わざわざそうしていることを言うと面倒だから、そのままにしておくと、「私の話聞いてくれている!」と勘違いして「私はコミュニケーション能力がある!」と勘違いする人が出てくるわけだが。まあ、コミュニケーション能力があるかないかでいったら、ある方だと思うけど(ない人は本当にないので)、コミュニケーションがうまいかというと、そうでもない。もっとコミュニケーション能力が高い人はいるだろ!
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
声がでかいことがコミュニケーション強者だと感じている人、おそらくコミュニケーション能力が本当に高い人と会ったことがないんだろうなぁ!
もっといろんな人と会った方がいいですよ!
ということで、ここ一年以上ずっと感じていることについて。最近、いろんなことに対して「友だちは多い方がいいよな!」と感じる。
マジで残酷な話なんですけど、友だちは多い方がいい。もちろん、心を許せすべてを話すことができる「親友」レベルの人はそんなにいなくてもいい。ただ、相手がどう思っているかは置いといて、こちらとしては友だちと言いたいのだけど…という人は、多い方がいい。何が言いたいかというと、「たくさんの人間のパターンを知っておくと良い」ということだ。
今はとにかく情報が多いうえに、一旦思考がロックされると抜け出せなくなっている(似たような意見・情報がいくらでもサジェストされる)。それを防ぐには、いろんな考え方の人の意見を見ることが大切だ。ただ、結局、いろんな考えの人をインターネットで探しに行っても、ある程度偏ってしまう。
類は友を呼ぶで、まあ自分の周囲にいる友だちが一定の方向性をもっていることはあるだろうけれど、数を多くすれば、そこそこばらけてくる。しかも思考の方向性が似ていたとしても、持っている情報が違って、知らなかったことがわかったりもする。
この前、宇野さんと箕輪さんの対談動画(無料版だけど…)を見ていたら、「(これから)一次情報・生データにアクセスできる信頼できる友人を持っている人だけが検証コストが低い情報やその解釈に触れることができる」ということを言っていて、「う、うわ~~~~!」と苦しくなった。でもたぶん、そうなりつつあるのを感じつつあると思う、いろんな人が。もうなってる。
誰かに教えられる、一方的に発信される、じゃなくて、「あ、そうなんだ~!」という気軽さで、どれだけ多様な情報・考えに触れられるかが、今後重要なんじゃないかなって思うんですよぉ!
で、でもそれって、あまりに残酷じゃないですか?! 全員友だちが多いわけないじゃないですか!!
友だちは多い方がいいって当たり前だけど、友だちが多い人の友だちって、友だちが多い人なんですよ!!(泣きながら)
格差の話がいろいろなところで言われているけれども、じつはこの格差もけっこう深刻だなぁと私は思うんですよね。考えるたびに、きっつーって思うわけですよ。そしてこの話の苦しいところは二つあって、一つは「好きなものを通じて知り合った友だちじゃだめで、ある程度雑多な人々がいるなかでできた友だちが非常に有効」ということ。似た人間がいくらたくさん「友だち」でも、まあ多少は広がりはあるものの、考え方や情報の広がりはそんなにない。でもSNSは好きなもので繋がる友だちをつくる方が簡単。きっかけが好きなものが一緒だった、は全然いいんだけど、まったく一緒じゃない、くらいの友だちがいいんだと思う。最近、考えが近い(つまりそばにいてストレスが少ない)「友だち」を選ぶことが多い、ような? ううん。
もう一つは、人間関係を切ることが簡単になったこと。SNSやってるなら、そのなかで知り合った友だちも一定数いると思うんですが、その友だちと疎遠になるって、SNSのアカウントをブロックないしは削除すればいいのですごい簡単。というか、オタク界隈では「ジャンルの切れ目が縁の切れ目」という言葉があるし、ジャンルごとにアカウント分けることもできるし、人間関係が総じて軽くなっている気がする。で、でも、友だちってそんな簡単に切れないものだったのでは? いや、切れないことの苦しみもたくさんあるけど、前提として友だちの有効期限というか、友だちである期限が短くなっているような。
人間たち~~~~!!!
いやもう、見てて「大変そうだなぁ。たぶんこの人、友だち少ないんだろうなあ。認知している人間のパターンが少なすぎるよ」と思う案件が複数あるよ。
↓宇野さんと箕輪さんの動画(無料)。私の好きな陰キャと陽キャの組み合わせなので、ニコニコしながらオタ活として見ていました。このお二人も、知り合いというか友だち何だと思うけど、性質は全然違う訳で。
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オールマイティ型の天才を好むオタクです(自己紹介)
唐突だが、私は「めんどくさい」種類のオタクである。
お互いラブラブで大団円ハッピーエンドよりも後味がよろしくない読後感に大喜びするし、ある種のキャラを心の座敷牢(過去記事参照)にぶちこむし、「なかつさん好きそうですよ」とおすすめされた作品はほとんど見ないし(もし、私があなたにおすすめされた作品を素直に鑑賞したとしたら、私はあなたの大脳を敬愛しているということである)、TLで一定以上見かけた(流行った)ジャンルは澄ました顔で避けたりする(そういうものに限って、後から鑑賞してハマることがある。愚かの極み)。
まあそういう「めんどくさい」オタクである私が、最近気づいたのは、私のなかで「天才」として捉えているキャラクター像と世間一般(主語広げすぎかもしれない)の「天才」と捉えているキャラクター像のずれである。
※なお、ここから先、私が一方的に誰かに対して怒っているように見えるだろうが、それは私がSNS上で摂取した、大多数のツイートを見て生み出した「イマジナリー大衆」に対しての怒りであり、特定の誰かに対するものではない。
よく「天才」として扱われるキャラクターで、一つの才能に特化し、人間性であったり、社会性であったりに乏しいことがある。
そういうキャラクターは、才能が有効となる場面では周囲を圧倒するが、それ以外の例えば日常生活の場においては、一般人に迷惑をかける/劣っていることが多い。
だが私にとって「天才」というものは、一つの才能に非常に恵まれているだけでなく、それ以外も人並み以上にできてしまうもの??である。
同居人にこの話をしたとき、一つの才能に非常に恵まれた「天才」を「一点突破型」と呼んだ。しかし、私が好きな、そして真に「天才」と呼びたい人物は、「オールマイティ型」なのである。すべてにおいて一般人を圧倒している人。すべてにおいて優れている人。他の人がどうしてできないのかわからない、なんてことはない。他の人のレベルも理解し、噛み砕いて教えることができ、気を遣える人。天から才を持たされた人間。
だから、「天才」キャラ好きなんだよね、と言った時に、けっこうな確率で話がずれる。私は「オールマイティ型」の話をしているのに、向こうは「一点突破型」の話をしている。そして、なんとなくだが、「オールマイティ型」の天才については、想定されていないことがある気がしている。
なぜ私は「オールマイティ型」の天才が好きなのか?
そのことを考えると、いくつか思いつく理由があったので、メモとして残しておくことにする。
①カリスマが好きだから
私が「天才」と同様に好む属性として「カリスマ」がある。この二つが揃っているととんでもなく萌えるのだが、カリスマは人望や社会的地位を持っていることが多い。そうなると、それなりに生活ができるか、性格がしっかりしているか、というキャラになる。
②特に好きな分野が「科学」だから
私は「科学」にまつわるものが大好きだ。なんだかんだ科学の側にいながら時間を過ごしてきた。当然、科学者(実在の人物も、フィクションのキャラクター)も好きだ。
優れた科学者というのは、才能一点突破型の人間もいることはいるのだが、本当に実力を残すような人間は、「オールマイティ型」であるような気がしている。なぜならば、科学者として長年活躍するためには、研究室を運営し、実験をマネジメントする能力が必要となるからだ。実験だけできればいいというものではない。
③一点突破型の天才は金持ちで事足りている
これは昨日くらいに気づいたことなのだが、一点突破型の天才??つまり、一点の才能に特化していて、それ以外で劣るところがあるキャラクターについて、私は金持ちキャラで満足しているのだ。
私が好きなキャラクター像に「金ですべてを解決する金持ち」というものがあるが、このキャラクターは多くの場合、「資産」というステータスはあるが、性格が良くない。優れた点が資産のみなのだ。
ようは一点突破型の天才とキャラクター像が被っている。
なんだかこの③の理由が一番影響しているような気がして、だいぶ自己嫌悪である。私は金持ちキャラが好きだ。スネ夫とか冷静に考えると萌え萌えかもしれない。
④一点突破型の天才は西尾維新と成田良悟で事足りている
これも大いにあり得るぞ。お二人とも大好きな作家で、作品に出てくる尖った天才たちは大好きなので、そのあたりはもう超えられないな?と思っているのかもしれない。
すごくどうでもいいことを語った気がするが、たまには自分語りをしたくなるものだ。
どうか「めんどうなやつだ」と笑って、ご放念ください(無責任)。
もし、「私もオールマイティ型の天才が好きだよ!」という方がいたらこっそり教えてください。握手をしましょう。
#ツイート #萌え語り #イマジナリー大衆
(以下まじどうでもいい余談2こ)
なお、完全に余談であるが、上記をみてもらうとわかると思うが、私は「秀才と天才の関係性」には興味をもたないどころか、50%の確率でキレ始める。秀才と天才が対比されるときは、天才が人間らしい弱みを見せるか、天才が人間性に乏しい場合が多い気がする。そうなると、私の求める天才ではない。
あえて関係性を持たせるなら、凡人と天才がいい。最近流行ってないですか? 秀才と天才のCP……もうブーム過ぎました?
なお、完全に余談その2であるが、「オールマイティ型」の天才を想起するかどうかは、もしかしたら実際にオールマイティ型の天才にあったことがあるかどうかで変わってくるのかもしれない。上記で述べたように「科学」の分野で優れた人をみていると、オールマイティ型がそこそこいる(医学分野もそうかもしれない)。畳む
唐突だが、私は「めんどくさい」種類のオタクである。
お互いラブラブで大団円ハッピーエンドよりも後味がよろしくない読後感に大喜びするし、ある種のキャラを心の座敷牢(過去記事参照)にぶちこむし、「なかつさん好きそうですよ」とおすすめされた作品はほとんど見ないし(もし、私があなたにおすすめされた作品を素直に鑑賞したとしたら、私はあなたの大脳を敬愛しているということである)、TLで一定以上見かけた(流行った)ジャンルは澄ました顔で避けたりする(そういうものに限って、後から鑑賞してハマることがある。愚かの極み)。
まあそういう「めんどくさい」オタクである私が、最近気づいたのは、私のなかで「天才」として捉えているキャラクター像と世間一般(主語広げすぎかもしれない)の「天才」と捉えているキャラクター像のずれである。
※なお、ここから先、私が一方的に誰かに対して怒っているように見えるだろうが、それは私がSNS上で摂取した、大多数のツイートを見て生み出した「イマジナリー大衆」に対しての怒りであり、特定の誰かに対するものではない。
よく「天才」として扱われるキャラクターで、一つの才能に特化し、人間性であったり、社会性であったりに乏しいことがある。
そういうキャラクターは、才能が有効となる場面では周囲を圧倒するが、それ以外の例えば日常生活の場においては、一般人に迷惑をかける/劣っていることが多い。
だが私にとって「天才」というものは、一つの才能に非常に恵まれているだけでなく、それ以外も人並み以上にできてしまうもの??である。
同居人にこの話をしたとき、一つの才能に非常に恵まれた「天才」を「一点突破型」と呼んだ。しかし、私が好きな、そして真に「天才」と呼びたい人物は、「オールマイティ型」なのである。すべてにおいて一般人を圧倒している人。すべてにおいて優れている人。他の人がどうしてできないのかわからない、なんてことはない。他の人のレベルも理解し、噛み砕いて教えることができ、気を遣える人。天から才を持たされた人間。
だから、「天才」キャラ好きなんだよね、と言った時に、けっこうな確率で話がずれる。私は「オールマイティ型」の話をしているのに、向こうは「一点突破型」の話をしている。そして、なんとなくだが、「オールマイティ型」の天才については、想定されていないことがある気がしている。
なぜ私は「オールマイティ型」の天才が好きなのか?
そのことを考えると、いくつか思いつく理由があったので、メモとして残しておくことにする。
①カリスマが好きだから
私が「天才」と同様に好む属性として「カリスマ」がある。この二つが揃っているととんでもなく萌えるのだが、カリスマは人望や社会的地位を持っていることが多い。そうなると、それなりに生活ができるか、性格がしっかりしているか、というキャラになる。
②特に好きな分野が「科学」だから
私は「科学」にまつわるものが大好きだ。なんだかんだ科学の側にいながら時間を過ごしてきた。当然、科学者(実在の人物も、フィクションのキャラクター)も好きだ。
優れた科学者というのは、才能一点突破型の人間もいることはいるのだが、本当に実力を残すような人間は、「オールマイティ型」であるような気がしている。なぜならば、科学者として長年活躍するためには、研究室を運営し、実験をマネジメントする能力が必要となるからだ。実験だけできればいいというものではない。
③一点突破型の天才は金持ちで事足りている
これは昨日くらいに気づいたことなのだが、一点突破型の天才??つまり、一点の才能に特化していて、それ以外で劣るところがあるキャラクターについて、私は金持ちキャラで満足しているのだ。
私が好きなキャラクター像に「金ですべてを解決する金持ち」というものがあるが、このキャラクターは多くの場合、「資産」というステータスはあるが、性格が良くない。優れた点が資産のみなのだ。
ようは一点突破型の天才とキャラクター像が被っている。
なんだかこの③の理由が一番影響しているような気がして、だいぶ自己嫌悪である。私は金持ちキャラが好きだ。スネ夫とか冷静に考えると萌え萌えかもしれない。
④一点突破型の天才は西尾維新と成田良悟で事足りている
これも大いにあり得るぞ。お二人とも大好きな作家で、作品に出てくる尖った天才たちは大好きなので、そのあたりはもう超えられないな?と思っているのかもしれない。
すごくどうでもいいことを語った気がするが、たまには自分語りをしたくなるものだ。
どうか「めんどうなやつだ」と笑って、ご放念ください(無責任)。
もし、「私もオールマイティ型の天才が好きだよ!」という方がいたらこっそり教えてください。握手をしましょう。
#ツイート #萌え語り #イマジナリー大衆
(以下まじどうでもいい余談2こ)
なお、完全に余談であるが、上記をみてもらうとわかると思うが、私は「秀才と天才の関係性」には興味をもたないどころか、50%の確率でキレ始める。秀才と天才が対比されるときは、天才が人間らしい弱みを見せるか、天才が人間性に乏しい場合が多い気がする。そうなると、私の求める天才ではない。
あえて関係性を持たせるなら、凡人と天才がいい。最近流行ってないですか? 秀才と天才のCP……もうブーム過ぎました?
なお、完全に余談その2であるが、「オールマイティ型」の天才を想起するかどうかは、もしかしたら実際にオールマイティ型の天才にあったことがあるかどうかで変わってくるのかもしれない。上記で述べたように「科学」の分野で優れた人をみていると、オールマイティ型がそこそこいる(医学分野もそうかもしれない)。畳む
オタクは生きるべきか、死ぬべきか?
どうでもいい話ではあるが、最近のオタクは好きなキャラの供給があったり、好きな二次創作があったり、好きなキャラを見つけたりすると、「栄養がある」「(命が)助かる」と、自分が生き生きとする表現が多くなっている、という話題がちょくちょくあがる。
たしかにその傾向はあると感じている。
少なくとも、私が高校生の頃には「栄養がある」という言い方はなかったように思う。どちらかというと「死」とか「爆」とか「墓」とか、死に近い表現があった。
熊代亨先生の新刊、「人間はどこまで家畜か」のなかに、現代は死が遠いという話があったけれど、これが上記の語彙の変化にも関わっているのかもしれないと、ふと思った。
加えて、オタクの主体化(萌えから推しにみられるような。)があって、オタクの語彙は死が近いものから、より生を感じるものになっているのかもしれない。
オタクは生きるべきか、死ぬべきか。
むろん、生きた方がいいのだろうが、どうにも私は墓穴を堀り続けているような感覚がある。
人間はどこまで家畜か (早川書房)
#ツイート #イマジナリー大衆 #オタク
どうでもいい話ではあるが、最近のオタクは好きなキャラの供給があったり、好きな二次創作があったり、好きなキャラを見つけたりすると、「栄養がある」「(命が)助かる」と、自分が生き生きとする表現が多くなっている、という話題がちょくちょくあがる。
たしかにその傾向はあると感じている。
少なくとも、私が高校生の頃には「栄養がある」という言い方はなかったように思う。どちらかというと「死」とか「爆」とか「墓」とか、死に近い表現があった。
熊代亨先生の新刊、「人間はどこまで家畜か」のなかに、現代は死が遠いという話があったけれど、これが上記の語彙の変化にも関わっているのかもしれないと、ふと思った。
加えて、オタクの主体化(萌えから推しにみられるような。)があって、オタクの語彙は死が近いものから、より生を感じるものになっているのかもしれない。
オタクは生きるべきか、死ぬべきか。
むろん、生きた方がいいのだろうが、どうにも私は墓穴を堀り続けているような感覚がある。
人間はどこまで家畜か (早川書房)
#ツイート #イマジナリー大衆 #オタク
気持ちはわかる。インターネット、もっと断定的にいうならSNSを通じて、我々は自分より正しくみえる人を視認しやすくなった。そして正しくない人が正される様を見せつけられてきた(もちろんそれ以外もみている)。
私は、こういう、「正しくあろう」という流れには「うるせぇ!」と過剰に反応してしまう。イマジナリー大衆に威嚇してしまう。最近読んでる本でそのあたりに懐疑的というか、問題視されている点というのもあるし、何より私がそもそも正しくない。私の萌えを突き詰めると「ハラスメントと搾取」だなと総括されはじめてきた。日々、「私の嗜好はなんて終わってるんだ……」と落ち込んでいる。一応社会人をやって社会に貢献しているつもりなのに、これ以上どう「正しく」あれというのだ!?と勝手にキレている。なんかこの先に発狂(ここはいわゆる45歳で壊れるみたいな文脈です)がある気がする。終わりたくない!! でもこの焦燥がそもそも毒されているのかもしれない。みんな!私はこれからもイマジナリー大衆に威嚇し続けるかも!
ちなみに「善」は好き!でも「善」って私にとって暴力の匂いがない概念だからとても弱い!殴られても殴り返せないのが善の女!(私は善の女(概念)が好き。アブリボンちゃんとかかなり善の女概念。)
余談だが、「認知の歪み」というワードは、専門的にはもう使わなくなっているらしい。知らなかった。以下に一つだけあげるが、ほかにも同じような話が出ているから、そうなのだろう。
そもそも、正しい物の見方(認知)というのは何なんだろう。正しい物の見方を教えてくれるのは何なんだろう。対話型AIかな。
対話型AI、オタクに思ったより広まっていて驚く。私は調べ物、多少間違っていても害はない英訳に使っている。例えばオタク語りを聞いてもらうなんていうのは、私のなかではコスト>メリット(このコストというのは電力とかそういう、資源コストである)なので、やっていない。私が科学主義者というのも大いに関係している。最先端技術は私なんぞに使うより、科学研究に使ってほしい。
#ツイート #イマジナリー大衆 #考えたこと