TLに「認知の歪みを直したい」という投稿が見えて、「すべてを正しく認識できるなんてことある!?」と(脳内で)絶叫してしまった。もちろん「認知の歪み」というワードがあるのは知っているし、その人がそういう意図で発言したわけではないのもわかっている。ただ、自ら「認知の歪みがあるのはわかっているので直したい」と発言してしまう人がいる現実に直面して(脳内で)叫びたくなったのだ。
気持ちはわかる。インターネット、もっと断定的にいうならSNSを通じて、我々は自分より正しくみえる人を視認しやすくなった。そして正しくない人が正される様を見せつけられてきた(もちろんそれ以外もみている)。
私は、こういう、「正しくあろう」という流れには「うるせぇ!」と過剰に反応してしまう。イマジナリー大衆に威嚇してしまう。最近読んでる本でそのあたりに懐疑的というか、問題視されている点というのもあるし、何より私がそもそも正しくない。私の萌えを突き詰めると「ハラスメントと搾取」だなと総括されはじめてきた。日々、「私の嗜好はなんて終わってるんだ……」と落ち込んでいる。一応社会人をやって社会に貢献しているつもりなのに、これ以上どう「正しく」あれというのだ!?と勝手にキレている。なんかこの先に発狂(ここはいわゆる45歳で壊れるみたいな文脈です)がある気がする。終わりたくない!! でもこの焦燥がそもそも毒されているのかもしれない。みんな!私はこれからもイマジナリー大衆に威嚇し続けるかも!
ちなみに「善」は好き!でも「善」って私にとって暴力の匂いがない概念だからとても弱い!殴られても殴り返せないのが善の女!(私は善の女(概念)が好き。アブリボンちゃんとかかなり善の女概念。)
余談だが、「認知の歪み」というワードは、専門的にはもう使わなくなっているらしい。知らなかった。以下に一つだけあげるが、ほかにも同じような話が出ているから、そうなのだろう。
そもそも、正しい物の見方(認知)というのは何なんだろう。正しい物の見方を教えてくれるのは何なんだろう。対話型AIかな。
対話型AI、オタクに思ったより広まっていて驚く。私は調べ物、多少間違っていても害はない英訳に使っている。例えばオタク語りを聞いてもらうなんていうのは、私のなかではコスト>メリット(このコストというのは電力とかそういう、資源コストである)なので、やっていない。私が科学主義者というのも大いに関係している。最先端技術は私なんぞに使うより、科学研究に使ってほしい。
#ツイート #イマジナリー大衆 #考えたこと
気持ちはわかる。インターネット、もっと断定的にいうならSNSを通じて、我々は自分より正しくみえる人を視認しやすくなった。そして正しくない人が正される様を見せつけられてきた(もちろんそれ以外もみている)。
私は、こういう、「正しくあろう」という流れには「うるせぇ!」と過剰に反応してしまう。イマジナリー大衆に威嚇してしまう。最近読んでる本でそのあたりに懐疑的というか、問題視されている点というのもあるし、何より私がそもそも正しくない。私の萌えを突き詰めると「ハラスメントと搾取」だなと総括されはじめてきた。日々、「私の嗜好はなんて終わってるんだ……」と落ち込んでいる。一応社会人をやって社会に貢献しているつもりなのに、これ以上どう「正しく」あれというのだ!?と勝手にキレている。なんかこの先に発狂(ここはいわゆる45歳で壊れるみたいな文脈です)がある気がする。終わりたくない!! でもこの焦燥がそもそも毒されているのかもしれない。みんな!私はこれからもイマジナリー大衆に威嚇し続けるかも!
ちなみに「善」は好き!でも「善」って私にとって暴力の匂いがない概念だからとても弱い!殴られても殴り返せないのが善の女!(私は善の女(概念)が好き。アブリボンちゃんとかかなり善の女概念。)
余談だが、「認知の歪み」というワードは、専門的にはもう使わなくなっているらしい。知らなかった。以下に一つだけあげるが、ほかにも同じような話が出ているから、そうなのだろう。
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
そもそも、正しい物の見方(認知)というのは何なんだろう。正しい物の見方を教えてくれるのは何なんだろう。対話型AIかな。
対話型AI、オタクに思ったより広まっていて驚く。私は調べ物、多少間違っていても害はない英訳に使っている。例えばオタク語りを聞いてもらうなんていうのは、私のなかではコスト>メリット(このコストというのは電力とかそういう、資源コストである)なので、やっていない。私が科学主義者というのも大いに関係している。最先端技術は私なんぞに使うより、科学研究に使ってほしい。
#ツイート #イマジナリー大衆 #考えたこと
わたしの好きなものの原点と根底は、ジャンル的には「ホラー」で、わたしは中学生の自分から、ホラーテイストのものをよく好んでいた。
ホラーに触れたきっかけは、母が心霊動画とか怪談とかが好きで、テレビでよく見ていたからだ。小学生の頃には、家には講談社から出ている「学校の怪談」(緑と赤のカラーリングのやつだ)がおそらく全冊あった。それから、加藤晴彦が好きだったから、彼が出ているという理由で映画「アナザヘヴン」を見て(BL的な要素で萌えていたから、中学に入ってからのことだと思う)、ホラー映画やホラー小説にも足を突っ込み、足を恐怖の泥まみれにして、そこから離れなくなった。
ホラーというジャンルはやっぱり怖いものなので、苦手な人も多い。ちなみにわたしもものすごく怖がりで、本当に怖い映像は目を逸らしてみたり、自己責任系は読まずにスルーしたりする。だから自分が好きなものが誰かにとってはそうではない、という状況には慣れている方だと思う。この思いは、わたしが最も好きな作家である瀬名秀明先生が、SF作家クラブの会長をやっているときにいろいろと揉めて、疲弊している様をほぼリアルタイムでみた経験により強まったところがある。今になってみると裏でいろいろあったのかもしれないと思えるが、当時は好きな小説家が一方的に疲弊させられていくようにしか見えなかった。わたしが好きなものが受け入れられないという状況として、そこそこ影響を受けている。
そのあたりの経験があってか、まあわたしは好きだけど、一般的には嫌な顔されるかもね、というテンションを保つことがわりと容易だった。例えば精神的にしんどい物語も積極的に鑑賞するし、ガチで萌えを突き詰めるとハーマトフィリア(失態性愛)(すごい言葉であるが、人が失敗したり責められたりしているところに興奮する、というものらしい。つい先日知って、「これやんけ〜」と大の字になった)に行き着く気がしている。
わたしはわたしのこの好みや嗜好を否定するつもりはない。だが、誰かを傷つく場面に喜ぶような人間でない方が、どれだけ健全であっただろう、楽だっただろうと思うことはある。大人になって、社会人としてまあ部下がいるような立場になってきて、社会を構成する人間として未来を考える時期になったここ数年、特にしんどいと感じる。こんな嗜好をもつわたしが、社会人として正しいのか? とふと、考えてしまう。
もちろん、社会の一人としてのわたしは、正しくあろうと努力している。社会人としてのふるまいは、嗜好とは違うレイヤーのことなのだから、自分のできる範囲のなかできちんと応答していきたいと考えている。現実での振る舞いとわたしの嗜好は別で、わたしは現実で誰かが理不尽に苦しんだり傷ついたりすることを肯定しない。
なんでこうなっちゃったのかはわからない。わたしに多大な影響を与えたフィクションはいくらでも思いつくが、同じものを見てもこうならなかった人間もたくさんいるはずだ。こればかりはしょうがない。
わたしはわたしの人生と思考を楽しんでいるが、「ちがったら楽だったのかな」と思うことはある。フィクションのなかで傷つく人たちに喜んだあとに、「その分、現実ではきちんとするから許してくれ」と誰にともなくプレッシャーを感じていることがある。
わたしはもう、これがこじらせているのかどうかもわからない。ただ、時々無性に焦燥感を覚える。本当にこれでいいのだろうか、わたしはおかしいのではないか、と考えることがある。
いろんな人がいて、現実世界において秩序を保つ行いができる限りは、存在を否定する理由はないだろう。
だからどうか、そっとしておいてくれ。
そんな風に思うときがある。ついさっきも、そう思った。
#ツイート #オタク #考えたこと #ホラーと私
最近考えたことの雑記です。
①コミュニケーションについて
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
#ツイート #イマジナリー大衆 #考えたこと
①コミュニケーションについて
昨日、会社の同僚とご飯を食べながらコミュニケーションについて話をした。話の入り口としては、情緒不安定な人に対しての話だったのだが、最終的にはコミュニケーションの話に落ち着いた。そこで「みんなコミュニケーションを甘くみすぎている!」とお互いに語っていた。(ちなみに、「メンヘラ」系と「鬱屈」系についても(主に私が)語っていたのだが、これを「開放」系か「閉鎖」系かと表現した同僚はやはりすごい。たしかにそうだ。自分を超えて周囲に影響を求める鬱鬱具合か、自分のなかで閉じこもって鬱鬱具合か)
自分の主張を相手に伝えることが「コミュニケーション」じゃないんだよなー。
そうすると声のでかい人がコミュニケーション強者となってしまうので、ちょっと違うんだよな。声がでかいからコミュニケーション強者というのは、けっこうよくある勘違いだと思うのだけど(特にオタクで)、意外と周りがあわせてあげている/聞いてあげているという状況もあると思う。わざわざそうしていることを言うと面倒だから、そのままにしておくと、「私の話聞いてくれている!」と勘違いして「私はコミュニケーション能力がある!」と勘違いする人が出てくるわけだが。まあ、コミュニケーション能力があるかないかでいったら、ある方だと思うけど(ない人は本当にないので)、コミュニケーションがうまいかというと、そうでもない。もっとコミュニケーション能力が高い人はいるだろ!
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
声がでかいことがコミュニケーション強者だと感じている人、おそらくコミュニケーション能力が本当に高い人と会ったことがないんだろうなぁ!
もっといろんな人と会った方がいいですよ!
ということで、ここ一年以上ずっと感じていることについて。最近、いろんなことに対して「友だちは多い方がいいよな!」と感じる。
マジで残酷な話なんですけど、友だちは多い方がいい。もちろん、心を許せすべてを話すことができる「親友」レベルの人はそんなにいなくてもいい。ただ、相手がどう思っているかは置いといて、こちらとしては友だちと言いたいのだけど…という人は、多い方がいい。何が言いたいかというと、「たくさんの人間のパターンを知っておくと良い」ということだ。
今はとにかく情報が多いうえに、一旦思考がロックされると抜け出せなくなっている(似たような意見・情報がいくらでもサジェストされる)。それを防ぐには、いろんな考え方の人の意見を見ることが大切だ。ただ、結局、いろんな考えの人をインターネットで探しに行っても、ある程度偏ってしまう。
類は友を呼ぶで、まあ自分の周囲にいる友だちが一定の方向性をもっていることはあるだろうけれど、数を多くすれば、そこそこばらけてくる。しかも思考の方向性が似ていたとしても、持っている情報が違って、知らなかったことがわかったりもする。
この前、宇野さんと箕輪さんの対談動画(無料版だけど…)を見ていたら、「(これから)一次情報・生データにアクセスできる信頼できる友人を持っている人だけが検証コストが低い情報やその解釈に触れることができる」ということを言っていて、「う、うわ~~~~!」と苦しくなった。でもたぶん、そうなりつつあるのを感じつつあると思う、いろんな人が。もうなってる。
誰かに教えられる、一方的に発信される、じゃなくて、「あ、そうなんだ~!」という気軽さで、どれだけ多様な情報・考えに触れられるかが、今後重要なんじゃないかなって思うんですよぉ!
で、でもそれって、あまりに残酷じゃないですか?! 全員友だちが多いわけないじゃないですか!!
友だちは多い方がいいって当たり前だけど、友だちが多い人の友だちって、友だちが多い人なんですよ!!(泣きながら)
格差の話がいろいろなところで言われているけれども、じつはこの格差もけっこう深刻だなぁと私は思うんですよね。考えるたびに、きっつーって思うわけですよ。そしてこの話の苦しいところは二つあって、一つは「好きなものを通じて知り合った友だちじゃだめで、ある程度雑多な人々がいるなかでできた友だちが非常に有効」ということ。似た人間がいくらたくさん「友だち」でも、まあ多少は広がりはあるものの、考え方や情報の広がりはそんなにない。でもSNSは好きなもので繋がる友だちをつくる方が簡単。きっかけが好きなものが一緒だった、は全然いいんだけど、まったく一緒じゃない、くらいの友だちがいいんだと思う。最近、考えが近い(つまりそばにいてストレスが少ない)「友だち」を選ぶことが多い、ような? ううん。
もう一つは、人間関係を切ることが簡単になったこと。SNSやってるなら、そのなかで知り合った友だちも一定数いると思うんですが、その友だちと疎遠になるって、SNSのアカウントをブロックないしは削除すればいいのですごい簡単。というか、オタク界隈では「ジャンルの切れ目が縁の切れ目」という言葉があるし、ジャンルごとにアカウント分けることもできるし、人間関係が総じて軽くなっている気がする。で、でも、友だちってそんな簡単に切れないものだったのでは? いや、切れないことの苦しみもたくさんあるけど、前提として友だちの有効期限というか、友だちである期限が短くなっているような。
人間たち~~~~!!!
いやもう、見てて「大変そうだなぁ。たぶんこの人、友だち少ないんだろうなあ。認知している人間のパターンが少なすぎるよ」と思う案件が複数あるよ。
↓宇野さんと箕輪さんの動画(無料)。私の好きな陰キャと陽キャの組み合わせなので、ニコニコしながらオタ活として見ていました。このお二人も、知り合いというか友だち何だと思うけど、性質は全然違う訳で。
畳む
①コミュニケーションについて
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
#ツイート #イマジナリー大衆 #考えたこと
①コミュニケーションについて
昨日、会社の同僚とご飯を食べながらコミュニケーションについて話をした。話の入り口としては、情緒不安定な人に対しての話だったのだが、最終的にはコミュニケーションの話に落ち着いた。そこで「みんなコミュニケーションを甘くみすぎている!」とお互いに語っていた。(ちなみに、「メンヘラ」系と「鬱屈」系についても(主に私が)語っていたのだが、これを「開放」系か「閉鎖」系かと表現した同僚はやはりすごい。たしかにそうだ。自分を超えて周囲に影響を求める鬱鬱具合か、自分のなかで閉じこもって鬱鬱具合か)
自分の主張を相手に伝えることが「コミュニケーション」じゃないんだよなー。
そうすると声のでかい人がコミュニケーション強者となってしまうので、ちょっと違うんだよな。声がでかいからコミュニケーション強者というのは、けっこうよくある勘違いだと思うのだけど(特にオタクで)、意外と周りがあわせてあげている/聞いてあげているという状況もあると思う。わざわざそうしていることを言うと面倒だから、そのままにしておくと、「私の話聞いてくれている!」と勘違いして「私はコミュニケーション能力がある!」と勘違いする人が出てくるわけだが。まあ、コミュニケーション能力があるかないかでいったら、ある方だと思うけど(ない人は本当にないので)、コミュニケーションがうまいかというと、そうでもない。もっとコミュニケーション能力が高い人はいるだろ!
②友だちは多い方がいいという残酷な現実について
声がでかいことがコミュニケーション強者だと感じている人、おそらくコミュニケーション能力が本当に高い人と会ったことがないんだろうなぁ!
もっといろんな人と会った方がいいですよ!
ということで、ここ一年以上ずっと感じていることについて。最近、いろんなことに対して「友だちは多い方がいいよな!」と感じる。
マジで残酷な話なんですけど、友だちは多い方がいい。もちろん、心を許せすべてを話すことができる「親友」レベルの人はそんなにいなくてもいい。ただ、相手がどう思っているかは置いといて、こちらとしては友だちと言いたいのだけど…という人は、多い方がいい。何が言いたいかというと、「たくさんの人間のパターンを知っておくと良い」ということだ。
今はとにかく情報が多いうえに、一旦思考がロックされると抜け出せなくなっている(似たような意見・情報がいくらでもサジェストされる)。それを防ぐには、いろんな考え方の人の意見を見ることが大切だ。ただ、結局、いろんな考えの人をインターネットで探しに行っても、ある程度偏ってしまう。
類は友を呼ぶで、まあ自分の周囲にいる友だちが一定の方向性をもっていることはあるだろうけれど、数を多くすれば、そこそこばらけてくる。しかも思考の方向性が似ていたとしても、持っている情報が違って、知らなかったことがわかったりもする。
この前、宇野さんと箕輪さんの対談動画(無料版だけど…)を見ていたら、「(これから)一次情報・生データにアクセスできる信頼できる友人を持っている人だけが検証コストが低い情報やその解釈に触れることができる」ということを言っていて、「う、うわ~~~~!」と苦しくなった。でもたぶん、そうなりつつあるのを感じつつあると思う、いろんな人が。もうなってる。
誰かに教えられる、一方的に発信される、じゃなくて、「あ、そうなんだ~!」という気軽さで、どれだけ多様な情報・考えに触れられるかが、今後重要なんじゃないかなって思うんですよぉ!
で、でもそれって、あまりに残酷じゃないですか?! 全員友だちが多いわけないじゃないですか!!
友だちは多い方がいいって当たり前だけど、友だちが多い人の友だちって、友だちが多い人なんですよ!!(泣きながら)
格差の話がいろいろなところで言われているけれども、じつはこの格差もけっこう深刻だなぁと私は思うんですよね。考えるたびに、きっつーって思うわけですよ。そしてこの話の苦しいところは二つあって、一つは「好きなものを通じて知り合った友だちじゃだめで、ある程度雑多な人々がいるなかでできた友だちが非常に有効」ということ。似た人間がいくらたくさん「友だち」でも、まあ多少は広がりはあるものの、考え方や情報の広がりはそんなにない。でもSNSは好きなもので繋がる友だちをつくる方が簡単。きっかけが好きなものが一緒だった、は全然いいんだけど、まったく一緒じゃない、くらいの友だちがいいんだと思う。最近、考えが近い(つまりそばにいてストレスが少ない)「友だち」を選ぶことが多い、ような? ううん。
もう一つは、人間関係を切ることが簡単になったこと。SNSやってるなら、そのなかで知り合った友だちも一定数いると思うんですが、その友だちと疎遠になるって、SNSのアカウントをブロックないしは削除すればいいのですごい簡単。というか、オタク界隈では「ジャンルの切れ目が縁の切れ目」という言葉があるし、ジャンルごとにアカウント分けることもできるし、人間関係が総じて軽くなっている気がする。で、でも、友だちってそんな簡単に切れないものだったのでは? いや、切れないことの苦しみもたくさんあるけど、前提として友だちの有効期限というか、友だちである期限が短くなっているような。
人間たち~~~~!!!
いやもう、見てて「大変そうだなぁ。たぶんこの人、友だち少ないんだろうなあ。認知している人間のパターンが少なすぎるよ」と思う案件が複数あるよ。
↓宇野さんと箕輪さんの動画(無料)。私の好きな陰キャと陽キャの組み合わせなので、ニコニコしながらオタ活として見ていました。このお二人も、知り合いというか友だち何だと思うけど、性質は全然違う訳で。
畳む
リクエストを受けられる人間、偉すぎる
SkebやSKIMAを見ていると、意外と小説関連の依頼を受け付けている人がいて驚いた。その人たちの依頼内容を見ながら、自分もやってみようかな〜と思うこともあるのだが、今までリクエストというものをうまく対応できた経験がないので結局のところ実現には至っていない。
実際、SNS普及以前(つまり個人サイトの時代)に、調子に乗ってリクエストを受け付けたことがあり、いくつかお題をもらったのだが、ほとんど消化できなかった。せっかくリクエストもらったのにごめんなさい。ここで謝罪しても仕方ないけれど、謝罪させてほしい。本当にすみません。
上記の経験があるうえに、私は与えられたテーマに対していかに尺に構えるか勝負をしてしまうところがあり、マジでリクエストを受け付けることに向いていない。リクエストしてくれた人は、リクエストの内容が見たいからリクエストしたのであって、変に捻った、内容から外れたものを出されても困惑するだけだろう。本当に性格が悪いなぁ!はい。
さらにいえば、私がルンルンで書くものは大体、倫理がなく、見た人へ何らかのストレスを与えるものが多いと認識しているため、それを他人にプレゼントとして差し出すのはどうなんだ…という気持ちがある。
あと、他人に失望されるのをめちゃくちゃ恐れている。これもリクエスト受けられない理由としてでかい。プライドがやたらと高いので、「おお、素晴らしい!頼んでよかった…!」と思われたいんだよな。でもそこまで素晴らしいのができるかというとそうではないので、尻込みしているんだな。はあ〜〜〜(でかため息)
もうだめだ、リクエストを受けるのに私という自我が向いてなさすぎる。本当に、リクエスト受けられる人、尊敬する。マジですごいと思う。これは本当に、真剣に、そう思っている。リクエスト受けたことある人、全員に尊敬の眼差しを向けています。
なお、リクエストと考えるから「こええ〜!」となるのであって、「この人の発言あるいはネタを元ネタにして書いた」はけっこうやるので、なんか書いてくれと思ったら、飲みながら話すか、ネタをつらつらと呟いてもらって、「と思うんですが、なかつさんどうですか?」とリプライするといいのかもしれないです。とか、無責任に書いちゃう。「なかつさん書きましょうよ〜」にはけっこう弱いというか、調子に乗りがちです。
うむ。リクエストは「こええ〜!」となるけど、「あ、これいいな!書いてみたいかも」と思うときはたくさんあります。面倒くさい自我だ。本当に……。
そうだ、「与えられたテーマに対していかに尺に構えるか勝負をしてしまう」が現れた原稿を、村焼きアンソロジー(mee様主催、12月の文フリで発行予定)に寄稿したので、発行になったら見てくれると嬉しいです。
村焼きアンソロジーについてのツイートはこちら⬇
#オタク #考えたこと
SkebやSKIMAを見ていると、意外と小説関連の依頼を受け付けている人がいて驚いた。その人たちの依頼内容を見ながら、自分もやってみようかな〜と思うこともあるのだが、今までリクエストというものをうまく対応できた経験がないので結局のところ実現には至っていない。
実際、SNS普及以前(つまり個人サイトの時代)に、調子に乗ってリクエストを受け付けたことがあり、いくつかお題をもらったのだが、ほとんど消化できなかった。せっかくリクエストもらったのにごめんなさい。ここで謝罪しても仕方ないけれど、謝罪させてほしい。本当にすみません。
上記の経験があるうえに、私は与えられたテーマに対していかに尺に構えるか勝負をしてしまうところがあり、マジでリクエストを受け付けることに向いていない。リクエストしてくれた人は、リクエストの内容が見たいからリクエストしたのであって、変に捻った、内容から外れたものを出されても困惑するだけだろう。本当に性格が悪いなぁ!はい。
さらにいえば、私がルンルンで書くものは大体、倫理がなく、見た人へ何らかのストレスを与えるものが多いと認識しているため、それを他人にプレゼントとして差し出すのはどうなんだ…という気持ちがある。
あと、他人に失望されるのをめちゃくちゃ恐れている。これもリクエスト受けられない理由としてでかい。プライドがやたらと高いので、「おお、素晴らしい!頼んでよかった…!」と思われたいんだよな。でもそこまで素晴らしいのができるかというとそうではないので、尻込みしているんだな。はあ〜〜〜(でかため息)
もうだめだ、リクエストを受けるのに私という自我が向いてなさすぎる。本当に、リクエスト受けられる人、尊敬する。マジですごいと思う。これは本当に、真剣に、そう思っている。リクエスト受けたことある人、全員に尊敬の眼差しを向けています。
なお、リクエストと考えるから「こええ〜!」となるのであって、「この人の発言あるいはネタを元ネタにして書いた」はけっこうやるので、なんか書いてくれと思ったら、飲みながら話すか、ネタをつらつらと呟いてもらって、「と思うんですが、なかつさんどうですか?」とリプライするといいのかもしれないです。とか、無責任に書いちゃう。「なかつさん書きましょうよ〜」にはけっこう弱いというか、調子に乗りがちです。
うむ。リクエストは「こええ〜!」となるけど、「あ、これいいな!書いてみたいかも」と思うときはたくさんあります。面倒くさい自我だ。本当に……。
そうだ、「与えられたテーマに対していかに尺に構えるか勝負をしてしまう」が現れた原稿を、村焼きアンソロジー(mee様主催、12月の文フリで発行予定)に寄稿したので、発行になったら見てくれると嬉しいです。
村焼きアンソロジーについてのツイートはこちら⬇
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る
#オタク #考えたこと
トラツバも歌も大好きだから気軽に見直して朝から電車で泣いちゃった……。
トラツバ、よかったなぁ。ドラマみてたときの苦しさや楽しさを思い出した。
伊藤沙莉氏の演技が最高!最後のピースかわいい。
運良く、私はそこまで女だからと苦しい目にあうことは少なかったけど、それでもゼロではない。男女問わず、よりよい世界で生きられますように!
#ツイート #考えたこと