月面世界
明日葉所長とモブ研究員くん
いや本当にわからんものですよね、とブルーは重々しくうなずきながら言う。ある日生きていたかと思うと、次の日には死んでいる。いずれ誰もがそうなるわけですからな。
まったくその通り、とブラックは言う。いずれ誰もがそうなる。
(ポール・オースター「幽霊たち」、新潮文庫より引用)
人の記憶はどうあがいても摩耗する。どれだけ鮮明に記憶していようと、目の前で起こる事象ほどのデータの細かさを持たない。神経を通して脳に送られた情報は、電気信号の発火のオンオフに置き換えられる。連続して存在していたものは、その時点で細かく分断される。私たちは記憶としてそれらの存在を保持することができるが、存在そのものを保持することはできない。
通常の人間ではなくなったこの身をもってしても、あの存在をまるで眼前にあるように思い出すことは叶わない。
それは――当然のことだった。
誰しもが知っている、発見とは永遠に無縁の事実。
なのになぜ、私はこうして、ショックを受けているのだろう。
2069年。
私が彼女の身体を抱いて、彼女を目の前で見て、私の視神経を通じて脳のなかで神経細胞の発火――”0と1の二進数の集合“としてでなく実物の彼女を知ることができたのは13年間。
気づけば、私は、その10倍を生きていた。
私が生きている彼女を愛した期間の、その10倍の時間が過ぎていた。
それでもなお、私のなかには彼女の思い出がある。
しかしそれは、果たして「彼女」なのだろうか。
🌙
「一人なのか」
――突然声をかけられて、驚いた俺は右手に持っていたサンドイッチをタブレット端末の上に落してしまった。べちゃ、と水を含んだ音がして、半熟の炒り卵が食パンの間からこぼれ、でろりとタブレットの上に広がった。一緒に漏れ出たベーコンの欠片も落ちて、油がつく。
俺は慌てて立ち上がり、サンドイッチを皿の上に戻すと、机の隅に置いてあったティッシュ箱から乱暴にティッシュを三枚引き抜いた。
「びっくりさせないでください、よ……」
タブレットの表面にティッシュを当てて振り返った俺の言葉は、急激にしぼんだ。
そこに立っていたのはこの月面研究所・二代目所長――明日葉進だった。
俺のような末端の研究員は、所属初日と上司の報告にたまたまついて行った時くらいにしかお目にかかれない「レアキャラ」だ。
もしかして、こんな時間に一人で食事を取っている自分を注意しようと食堂に入ってきたのだろうか?
きちんと銀の髪を整えて、品の良さを全身から醸し出している明日葉所長は、ぽかんと口を開けたままの俺の全身をさっと視線でスキャンしたが、その表情は変わらず平坦なままだった。
「所長。失礼しました。いえ、別に、あの、サボっていたわけではないですよ。他の奴の昼飯を作ってやってたら、遅れちゃって、その」
月面研究所は、それぞれの研究室の主任によって勤務のルールが違うので、大学の研究室のようなコアタイムは存在しない。上司が了承すればいつ、どこで食事をしようと構わないのである。だから俺がここで一人、食事をしているのは業務上問題ないはずだが――下っ端が一人で外れた時間に食事しているのは、あまり心証がよくないだろう。
「岡崎が言っていた――最近入った料理のうまい研究員とはあなたのことか」
研究員たちに成果を求めるのと同じ口調で、明日葉所長は俺に言った。何の嫌味も、何の感心もない、ただ、自分のなかで理屈が立ったので、その理屈を口にしただけ、のようだった。
「あ、はい」
岡崎は生物研究部の主任の名前だ。俺がつくった昼飯を特に「うまい」と喜んで食べてくれる、日本人の男である。
日本の大学からこの月面研究所へ引き抜かれた俺は、ここへやってきて半年になるにも関わらず、まるで成果を出せないでいた。資金について頭を痛めずに済むが、その対価として支払うべきは「結果」である。成果のない俺の立場はあまりよいものと言えず、少しでも立場をよくしようとしてはじめたのが、研究員たちの代わりに昼飯をつくることだった。
大学時代にカフェのキッチンのバイトをしており、趣味でそこそこ料理をしていたこともあって、俺の料理の腕は自慢ではないが平均よりやや上だった。
料理をしている暇があったら研究を進めろ、と眉を顰める研究員もいたが、何だかんだ、美味い飯は実験やデータをにらんでばかりの研究員たちにも魅力的なようで、どちらかといえば俺の料理を喜んでくれる人の方が多かった。
無論、明日葉所長はそこに入っていない。
そもそも、彼が食堂にいるところを見かけたことがなかった。
俺にとって所長は、存在するに違いないのだが生きているか死んでいるのかわからない人――だった。食事や入浴、睡眠など人間らしいシーンを見たことがないのだ。配属当初、一度だけ歓迎会として所長も交えた食事会があったような気もするが、話しかけられた記憶はない。
「……すみません」
「謝る必要はないだろう。研究に滞りが出ていなければ、それでいい」
「あ、はい。そこは大丈夫です」
じつのところ、研究員たちの食事を少しだけ作るようになってから、研究が順調に進み始めたのだ。研究員たちが食事の御礼に、と、俺のテーマについて助言をくれたり、研究の近況を話してくれたりするようになって、やるべきことの方向性が見えてきたのだ。
「えーと、所長は、何か俺に……?」
明日葉所長は静かに首を振った。少しもにこりとしないまま。
「そうではない。食事を取りに来ただけだ」
彼の視線が、食堂の隅に鎮座する大型の冷蔵庫に向けられる。あのなかには地球から取り寄せたブロックタイプの栄養食や冷凍食品などが収められている。
「――あ、だったら、サンドイッチ、余っているんで、食べますか」
俺はまだ手をつけてないサンドイッチが乗った皿を取って、明日葉所長へと差し出した。
「小腹が空いた奴のために、ちょっと多めに作ってあるんですよ。ま、でも『あったら食う』くらいのものですから、所長が食べても問題ありません」
サンドイッチは片手間で食べられる利便性がありつつ、野菜や肉など複数種類の食材が摂取しやすい。俺のようにこぼすことがあるのが難点だが、きっと明日葉所長なら、きれいに食べることだろう。
明日葉所長は一瞬押し黙ったが、すぐに「ありがとう」と端的に礼を述べて、サンドイッチの皿を受け取った。迷惑なのか喜んでいるのかは、まったくわからなかった。ただ、御礼を言うときの音の繋がりが発せられた。しかし、拒否しなかったということは、食べる気ではいるのだろう。
「余計なことでしたら、すみません。それじゃあ俺は行きますので……」
「どうしてその論文を読んでいたんだ?」
バタバタと荷物をまとめだした俺に、明日葉所長がふと、呟く。その声に、今まで交わしたものよりも感情が見えた気がして、俺は振り向き、彼の様子を伺った。
相変わらず、表情は変わっていない。
「あ、えっと」
「それはあなたが地球にいた頃に書いた論文だろう」
タブレット端末に表示されていたのは、俺が筆頭著者として発表されている論文のページだった。あ、えっと、と彼に声をかけられたときと同じように、言い訳じみた様子で俺は答える。
「久々にみたら、引用件数増えてて。まだ読んでくれてるやつがいるんだなあって、感傷に浸ってました」
俺の戸籍はもう地球にない。だから、死んだも当然だ。
それを後悔するような人間であれば、今頃ここにはいない。
ただ。
――いなくなっても、生きている誰かが見てくれているのであれば。
――なんだか自分もまだ、生きている存在のような気がして。
――嬉しくなった。
俺はそのようなことを、率直に口にした。なぜだかわからないが、語っていいような気がしたから。
彼に、結果のデータあるいは研究のテクニカルターム以外を語ることがあるとは、正直想像してはいなかった。
「そうか」
明日葉所長は、それだけを言った。すみません、と俺は頭を下げて、食べかけのサンドイッチを片手に、食堂を去った。明日葉所長の横を通り過ぎる瞬間、彼がこちらに振り向いた気がしたが、俺は確かめることをしなかった。
🌙(2069年7月)
ああ、そうか。
だから、そう。
私は、彼らを守るべきなのだろう。
彼らはここで死ぬべきではない。
私が死んだとしても、彼らが私を覚えている。
私のなかで、永久が生きていたように。
そう、彼女は生きていた。
私は彼女を忘れなかった。
例え、私の人生のなかで、彼女と過ごした時期がほんの一握りであっても。
さようなら、私とともになった思い出たち。
もう二度と、離れることはないでしょう。
了

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