BLCP:京関
何かを失った。
私はあの夏何かを失った。
嫌な夢を見た。
私はあの夏一人の女性を失った。
その女性が死ぬ最後の瞬間を鮮明に私の目の前に叩きつける夢だった。悪夢と言っても過言ではない。しかし、鮮明な輪郭を持ったその女性を見れたことが嬉しかった。私の中の矛盾は心のひびの隙間に入り込み、腐る。
あの人はどこに居るのだろうか。
私は京極堂のいつもと変わらず不機嫌な顔を覗き込んだ。
もう習慣と課している小説のネタ詰まりにほとほと愛想が尽きて、不貞寝しまったら例の夢を見てしまったというわけだ。もちろん起きた私は夢のせいで精神的疲労が日常以上に溜まっており、妻が声をかけるのにもかまわず眩暈坂と呼ばれる坂を上って、とある古本屋の前に立っていた。私がこうなってしまったのは、古本屋の店主に全面的責任がある。
なんせ私を助け出したのは彼なのだから。
私は彼に全てを押し付けるつもりで、坂を上った。
忌々しい過去も。
あの人の悲しい顔も。
あの人の最後の言葉も。
私の責任も。
彼の責任も。
「君の目の中に、涼子さんがいる」
私は冗談でそう言ったのだが、京極堂はそうは受け取らず、まじめに考えてしまったようだった。一定のペースでページをめくり続けていた手を止め、ふっと珍しく顔をあげて私の方を見たのだった。もちろん、彼の目の中にあの人が映っているわけはない。わけはない。きっと、映っていない。映って、など。あの夏の蝉が頭の中で鳴いている。彼は言った。その声は微かに震えていたように聞こえた。
「何を言っているんだ。あの人はもう死んだろう」
これまた珍しく、京極堂は煮え切らない正しいと正しく思えない言葉を返した。京極堂の言葉が絶対であった私にはひどい違和感を生じさせる。途端に、彼に頼ってきた今までの人生が否定された気になって、鬱になる。堕ちるのは早いのだ。ただ、立ち直るのがどうも難しい。行きはよいよい帰りはなんとやら、というやつだ。
私は一度目を伏せてから京極堂の目の中を見つめなおした。
「知っている? 僕はあの日何かを失ってしまった」
失語症に陥ったかのごとく、京極堂は私の台詞に唇を震わせ、しばらく言葉を泳がせていた。何もないよ、と声には出さず口だけを動かしてみる。益々京極堂は私に恐れおののき、本を乱暴にバタンと閉じて苦痛の色を滲ませながら言った。
「知っている。僕は君のことなら大体わかっているつもりだよ」
「でも大丈夫。君がその分満たしてくれる」
私は京極堂の着流しの袖をつかんで、自らの顔を彼の顔に近付けた。唇と唇が触れ合おうとした瞬間、京極堂が密かに望んでいたのではと考えるその瞬間、私はぱっと顔を離してにっこりと笑った。嗚呼、不安定だ。京極堂が驚いて、何も言えないで居る。私と同じく、失語症になっている。それがおかしくて私は声を出して笑った。
「それじゃあ」
小説のネタを思いつくわけもなく、私は古本屋京極堂を後にした。
男が1人、つぶやく。
「僕は君を失いたくない」

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